ロト6と時間

2013/09/24 15:04

時間というものはまったく不思議である。その不思議な時間を形容するには他の次元、つまり空間に置き換えて喩える以外に未だ人類は方法を知らない。

わたしたちは、過去についてはすでに存在した、と信じて疑わない。なによりまず自分はそのことを覚えている。それにこれこれの資料にこう記録が残っている、などと証拠をあげる。それはおそらく間違いではない。確かに過去は存在した。しかし、その過去をあれこれ弄って改変することはできるだろうか? まったく否である。

それでは未来はどうか。未来を変えることはできるか? それも到底不可能である。過去が変えられないのになぜ未来が変えられるはずがあろうか。であるのに、わたしたちは未来には限りない可能性がある、などと平気でいう。まったくの嘘でたらめである。

世界で最も有名な猫にシュレディンガーの猫というのがいる。もっとも、これは仮想の猫である。シュレディンガーというのは、不確定性原理の提唱者で有名な波動関数の方程式を考えだした。

そのシュレディンガー素粒子の世界をマクロの世界に拡張させるために作り上げたのが「シュレディンガーの猫」という現代のイソップなのである。

シュレ猫がなぜイソップか、というと、未来は可能性であって決定されたものではないという寓話だからである。

箱の中に一匹の猫を入れる。箱には放射性物質ラジウムも入っており、これは一時間後にアルファ粒子を一個放出する可能性を50%に調整してある。さらに、このアルファ粒子を検知すると青酸ガスを放出する装置も設置してある。さて問題は、1時間後にこの猫が生きているのか、それとも死んでいるかである。

普通に考えればその確率は50%であって、わたしたちは箱の蓋を開けてみたときにその結果を知ることができる。しかし、この思考実験の主旨はそういうことではない。蓋を開けてはいけないのである。これはパンドラの函なのだ。

蓋を一度開けてしまえば、先ほどのように確率的な結果しか生まれない。わたしたちは、ああ良かった、生きていたと思うか、あるいは残念やはり死んでいたとがっかりするか、その確率は50%きっかりである。つまり、この種の実験を100回、あるいは100万回行えば、猫が生きている確率が50%であることがはっきりする。

ところが、この実験で使用する箱は浦島太郎の玉手箱のごとく、あるいはパンドラの函のごとく蓋を開けてはいけない。なぜなら、蓋を開けない状態で、つまりなんらの外乱を与えない状態での猫の生死が問題視されているからなのである。

ミクロの状態をマクロの状態へ置換する、つまり素粒子の世界を通常のマクロの世界へ比喩をもって変換するというのがシュレ猫のコンセプトなのである。

普通、猫は生きているか死んでいるかであって、生と死が半分ずつなどという状態は考えられない。しかし、蓋を開けてみるまでのシュレディンガーの猫というのは、この生死が半分ずつという幽霊のような状態なのである。

さて、シュレ猫の実験は、結局のところ未来は不確定であるということを証明する実験であった。なぜなら、1時間後の猫の生死をわたしたちは確率でしか知ることができないからである。

わたしと同様、というと偉そうに聞こえるだろうが、アインシュタインはこれに強く反発した。そのときの有名な言葉が「神はサイコロ遊びをしない。自然は、確率などという蓋然性で糊塗されない厳然とした言葉で語られなければならない」である。

アインシュタインでさえ、不確定性原理を蓋然性、確率の問題としてとらえていたということ自体が、量子論というものの難しさを物語っているように思える。

わたしが不確定性原理に反発を覚えるのは、おそらくアインシュタインもそうであったと思うのだが、運命論者だからである。

考えてみれば、ビッグバンから数えて150億年とか180億年とか言われているが、その最初の極小の点から現時点で180億光年という途方もない大きさを持つスペースに至るまで、その道筋にはそれこそ一口に無限とはいうが、とんでもないほどの組み合わせがあったはずである。しかし、結果的にはいま現在の宇宙の姿に落ち着いてしまっている。

これは考えてみれば非常に不思議なことである。

ここで突然だがロト6の話になる。

わたしは昔、オーストラリアに行ったときにキーノという博打をやったことがある。キーノはまさにロト6そのものである。だから、ロトをやったことのないわたしにもそれがどのようなものかはよく分かる。

キーノはたしか、ピンポン玉を一回り大きくした大きさの48個の球にそれぞれ1から48の数字が書いてあって、これが透明なバスケットボール大の球体の中で圧縮空気に押されて宙に浮いている。これが合計10個だった20個だったか、まったくランダムに透明な球体から外に吐き出されてくる。これの番号を予想してシートに記入しておくのである。当たった球の数に応じて当選金が支払われる仕組みなのである。

さて、唐突ながら、ビッグバンに話を戻すなら、この宇宙はロト6、あるいはキーノそっくりである。なぜなら、宇宙開闢以来、天文学的というのも変だが途方もない素粒子が存在し、それがまさにキーノやロト6のように振る舞ってきた。ロト6でいうなら、あなたが6個すべての数字を選択する確率は、43!/6!である。これはおよそ600万分の1である。つまり、あなたがロト6を一枚買ってそれが一等賞になる確率はわずかこれだけということである。

わたしはいったい何を言おうとしているのか。この宇宙は180億年もの間、ずっとこのような確率ゲームをやってきた。そのゲームの結果が現在の姿ということなのである。しかもその確率たるやロト6など象に対する蟻にも到底及ばない。一つ一つの素粒子が先ほどのシュレ猫の例のようにまったく予測不能の確率的振る舞いをする以上、その1秒後の世界のあり方の可能性はそれこそ無限にあると言っても過言ではない。そのようなゲームが180億年も続いてきたのである。そしてその結果、宇宙の果てのある太陽系の地球と呼ばれる天体に人類というものが誕生し、繁栄を極めている。その人類の端くれであるkiyoppyなどと自称する極めて卑小な人間がこのような詰まらないものを時間の浪費も考えずに書いている。

これはまったく不思議なことである。

しかし、である。はたして宇宙はこのように膨大な、ほとんど無限といってもよいほどの可能性の中からたった一つしかない現在を本当にたまたま偶然に選んだのだろうか。

否。わたしは、けっしてそんなことはない、と思うのである。なにもかもが最初から、ビッグバンのときから決まっていて、その終末も間違いなく決まっている。わたしはそう考える。

シュレ猫は、不確定性原理を分かりやすい寓話にしたものである。未来を予測することはできない。この物理法則をやさしく解説したといってもよい。ただ、予測はできないが確定したものでないとは説いてはいない。

たとえばジャンケンをする。あなたがその結果を予知できたとしよう。相手がチョキを出しあなたがパーを出してあなたの負けが決まった。しかし、あなたはその結果を覆すためにグーを出した。こんなことがあり得るだろうか。それならあなたの予知していたことはまったくの間違いだったということになる。

この例は単純ながら時間の本質を射抜いている。つまり、予測や観測そのものが結果に重大な影響を与えてしまうということである。予知そのものが本質的に不可能ということである。

前にも書いたが、πの例がそれである。スパコンが追い求めているその数字の不規則な配列は永遠に終わらない。スパコンは、言うならば現在を刻む時計の針であって、今この瞬間に分かった最後の数字が現在そのものである。スパコンの性能がどれほど向上しようとも、明らかにその先にある数字の配列はたとえば2,3,5,7,11,13と決まっているのに、現時点では不明なのである。

さて、わたしも生涯初めて買う、すでに決定しているはずのロト6の番号を、2,3,5,7,11,13のすべて素数に賭けてみようか。案外、kiyoppyなる人物が1等当選することがこの宇宙ではすでに決まっているかも知れないではないか。