精神とは何か2

2014/06/03 15:20

植物に心はあるか、と自問してないと結論付けたのはゲーテだった。
そんなばかな、と八百萬の神のおわす国に住むわたしは思うのだ。ゲーテはきっとキリスト教に洗脳されていたに違いない。

わたしは、人間、いやすべての生き物は精妙な機械だと考える。その精妙な機械が「心」や「精神」を持つなら、ロボットが「心」や「精神」を持てないはずがない。
なぜなら、わたしたちが何かを考えたり、あるいは何かを感じたり思ったりしているときに脳内で起きていることは化学的、あるいは物理的な反応に過ぎないからである。

そのような反応をロボットのAI(人工知能)内で電子的に行わせれば、必ずや生き物と同様の現象を起こせる、とわたしは考えるのである。

思うに、わが神道は実におおらかだった。草木や谷川の流れ、行雲や雷や竈の火にも神を認めた。逆に言うなら、神道とは、所詮その程度のものだったのである。だが、もちろんこれに侮蔑の意図はない。なぜなら、わたし自身がその辺に転がっている(最近はつとにお目にかからないが)石ころにも「精神」が存すると考える者だからである。つまり、わたしは神道的人間なのだ。

この世はハードとソフトでできている。このように言った方が現代社会には受け入れやすいのかもしれない。しかし、神道の思想とこれとにいったいどれほどの違いがあるのだろう。

わたしたちは肉(体)と精神をもつ。つまりわたしたちは、ハードとソフトで構成されている。
石ころとてなんら変わりはない。石ころもまた物(体)である、と同時に精神をもつ。これを証明するために、石ころの写真を撮ってみよう。石ころとはいえ、雲母や鉄やカルシウムや、その他さまざまな成分でできている。
これを写真に撮ると、メモリー上に1と0、つまり二進法によりbitmapで、あるいはjpegでデータが記録される。

このデータは、間違いなくソフトである。0と1で構成される複雑な配列は決して普通の人間には解読できないであろう。まったくでたらめな、ランダムな、色でいえば灰色でしかない。

おそらく、ゲーテはこの灰色しか見ていなかったのだ。

わたしたちは、現代社会に生きている。現代社会とは科学の時代である。と信じている。
しかし、いみじくもニュートンが言ったように、わたしたちの理解可能な科学とは、大きな青い波の打ち寄せる砂浜で頑是ない子供が綺麗な貝殻や石ころを集めて悦に入っている、その程度のものに過ぎない。
その眼前には途方もなく巨大な真実の海が広がっているというのに。