精神について3

2014/06/12 09:20

わたしたちが通常使用している『精神』という言葉は、極めて限られた意味のものである。たとえば心理学の用語として、あるいは宗教的な意味で使われている。

ところが本来的な精神は、その言葉自体が生まれる以前から存在していた。太古、精神という言葉さえない時代から、人々は雷や地震、それに彗星の出現や超新星の爆発などといった自然の現象に対し畏れや神秘の感情を抱いた。命を持たぬはずの巨岩や滝にさえ精神性を見出していた。

しかし、文明が啓けるにつれ、精神の意味はだんだんと限定的なものへ狭められていった。ほんの数十年、せいぜい数百年ほど前の時代までの精神は、ある程度の哲学的な広がりと深さをもつ(精神)であったが、今という時代に至っては、上に述べたようにほとんど心理学的、もしくは宗教的用語と言って差し支えのないくらいに狭められてしまった。

その間に、つまり精神から『精神』に至る過程で大きく欠落してしまったのは神秘に対する畏敬の感情なのである。

その欠落に寄与したのは間違いなく科学である。サイエンスは、分類や分析を行う学問である。分類や分析した結果を利用して技術が構築され、また物理や化学、数学といった学問はより深く、より高いものへと発展していった。

しかし、サイエンスには負の側面もあった。雷が積乱雲中の上昇気流、下降気流の摩擦によって生じた静電気の放電現象であるということが分かると、現代人からは太古の人々が雷に対して抱いた畏れは消えた。大地震についても同じである。311は、確かに地球という惑星の持つ潜在的なエネルギーの巨大さをまざまざと人類に見せつけた。だが、それでもわれわれは古代の人々ほどには謙虚になれない。なぜなら、地震は地球物理学で理論的に説明ができるからだ。人類は地震を恐れはしても畏れることはなくなったのである。

宗教も、神道のような多神教から一神教へと姿を変えた。アニミズムからより体系的なものへ進化を遂げた。
原始的、自然発生的な畏れの感情は薄らぎ、道徳や倫理といった、より社会的規範を示すものへと変容していったのである。