脳機関説

2014/05/18 16:52


みなさま、お久しぶりです。議論白熱の様子に炙り出されて、またこのようなものを書いてみる気になりました。

週刊文春だったか、新潮だったか、北京オリンピックの前に宮崎哲弥さんがチベット仏教とシナ共産党とについてコラムを書いていて、それがとても印象的だったのでよく憶えています。

中共というのはマルキシズムの国ですから宗教というものをあまり有難がりません。これはまぁ当然のことでしょう。マルキシズム唯物論ですから。
一方西蔵は仏教の国ですから、シナがこの国を治めようとしたって、うまくいくはずがありません。

仏教はお釈迦様を祖とする宗教ですが、他の二大宗教とはいささか趣を異にしているように思います。といいますのは、仏教は仏様を信じる宗教であり、仏様と神様は全く異なるものだからです。

話は横道に逸れますが、わたしの好きな米原真理さんは、残念なことに卵巣がんで8年前に亡くなりました。彼女と親しかった佐藤優さんの書かれたものを読みますと、彼女のご尊父は共産党員であり、彼女もまた一時共産党に籍をおいていたこともあったということです。しかし、その一方で、彼女の家は真言宗仏教徒であった。
自らの灯が消えようとするそのわずか前に、彼女は佐藤さんに何度も何度も念を押すように聞いたといいます。

「仏教は唯物論だよね」

彼女は自らの葬式を仏教ですることに迷いを感じていたのです。
わたしは、このことをこんなふうに考えています。
つまり彼女は、その父親(米原衆議院議員)の影響もあって根っからの共産主義者であり、当然その自覚もあった。その自分が仏教式の葬式をあげることに一貫性はあるのか、と疑問に感じていた。それで、どうしても神学をおさめた佐藤さんに訊いて確認したかったのです。

さて、仏教が唯物論であるかどうかはわたしにはよく分かりません。唯物論がどのようなものであるかさえ本当のところよく分かりません。
ただ、このような問いは、かつて光の量子性と波動性が争われたことと同じに思われてなりません。
物があれば当然に質量がある(光にはないそうですが)。質量があれば当然に重力もある。重力そのものは光と同じで物質ではありませんから、この一事をもってしても唯物論が根底から崩れてしまいます。

わたしは昔、シモーヌ・ヴェーユというひとの「重力と恩寵」という本を買い、その上っ面だけを読みました。このときに思ったことは、重力とか光というものは、これは精神と同じものであるな、ということでした。
光の色がひとの感情と照応しあうように、また音も同じで音楽がひとの心を揺さぶるように、波動というものは、これはまったく精神のことであるな、と思いついたのです。

話を軌道修正します。宮崎哲弥さんが述べていたことは、現代科学が明らかにした脳の機能についてでした。
西洋人、というよりキリスト教の影響を多大に受けた人たちというのは、脳の中に顔だけを認識する部位(顔細胞というそうです)や手の形や動きのみに反応する部位(手細胞)があるように、必ずや神の座があるはずだ、と考えていた。ところがそんなものはどこにも存在しないということが分かって困惑している、という話でした。

宮崎氏は、ダライ・ラマの言葉を引いて、仏教では上のような考えをしない。人間の肉体のうち脳にだけ仏様が宿るなどとは思わない。手足や皮膚や心臓にも、血液にも同等に仏様が宿っている、と考える。と述べているのです。つまり、シナが迷信や詐欺だなどと批判するチベット仏教は、その根底において現代科学以上に科学的なのだ、と。

わたしは、上を読んだときに、昆虫の神経系統を思い浮かべました。昆虫の体というものは実に精妙です。体重わずか数十ミリグラムのミツバチはなぜ、太陽から方位を察知し、仲間に蜜のありかをダンスで知らせることができるのでしょう。ミツバチには脳というほどの立派な器官はほとんどないのです。いえ、ほんとうはあるのですが、人間のような高等動物と違って中央集権的ではない。もちろん頭部にも脳はあるが脚や翅やその他あちこちに小さな脳が点在しこれらがニューロンネットワークを構成しているのだそうです。

だんだんと取り留めもない話になってきましたが、要するにわたしに言わせれば、脳にしてみたって結局は大したものではありません。肉体の単なる一器官に過ぎないのです。
ここが神の座であるとか、神との通信機構であるとか、そんなふうに考える方もいらっしゃるかも知れないが、わたしにはとてもそうは思えません。
脳は、いわば「利己的な遺伝子」が自らの生存を担保するために長年かかって獲得した機関の一部に過ぎない(kiyoppy的脳機関説)、と考えます。

以前から明らかにしているように、わたしもまた無神論者です。人間原理というものの信奉者でもあります。人間原理を宇宙物理学における進化論であると考えています。
ただしこの宇宙は、これまで考えられていた意味とはまた別の意味で無窮であり、途方もない罠(物理学的な)があちこちに仕掛けられているに違いありませんから、たとえ無神論者ではあっても、自分たち人間というのは、お釈迦様の掌から抜け出せなかった孫悟空以下の、無知の存在であることを忘れてはいけないのだ、という気はします。

最後に、金子みすずさんの有名な詩で締めくくりたいと思います。


   蓮と鶏

 泥のなかから
  蓮が咲く。

  それをするのは
  蓮じゃない。

  卵のなかから
  鶏がでる。

  それをするのは
  鶏じゃない。

  それに私は
  気がついた。

  それも私の
  せいじゃない。