肉体と精神

2014/06/13 06:31


わたしたちの身体はこの世を構成する物質から構成されている。水素や酸素、炭素、カルシウム、等々である。

同じように、わたしたちの精神はこの世を構成する法則から構成されている、と言うと、この時点で?と疑問を呈する人がほとんどである。

わたしの考え方はそれほど奇異なものなのだろうか。

わたしは、精神を宗教のように扱わない。特別な地位には置かないだけである。
昔、宗教が考えたように、精神は人間だけに存在するものではない。犬猫の類から虫けらやウィルスに至るまで、それを精神とは呼ばないだけで存する。

それをさらに発展?させて、虫けらどころか石ころにも存在すると言えば、極めてエキセントリックな人間にされてしまうのだ。

わたしにしてみれば、もうすでに何十年も身に馴染んだ感覚であるから、なぜこれが理解してもらえないのかもどかしくなってくる。

わたしたちの精神は重力と同じである、と言えば変人を見るような目で見られる。わたしたちの精神は数学の法則と同じである、などと言えば一層変人の度合いが強くなる。

わたしたちが上下を識別できるのは重力があるからである。重荷に耐えねばならないのも重力のせいである。高い、低いという言葉も重力がなければ存在しえない。

この世は円である。もしくは球体である。地球は青く丸いし、太陽もその他の惑星も球体をしている。シャボン玉も水滴も自然に丸くなる。これらに共通しているのはπという、誰がつくったかも知れぬ定数である。
オイラーの定理を発見したオイラーのイニシャルeもまた、2.7818...と無限に続く超越数である。

ファインマンオイラーの宝石と読んだ美しい式 e^jπ-1=0は、オイラーの定理から導かれる。わたしたちがこの式に美を感じ、これに何らかの物理的な意味(そのようなものがあるのかどうかも分からないが)を見出そうとするのはなぜだろう。

結論を急ぐなら、わたしは、わたしたちの肉体が、他の万物を構成している水素や炭素、カルシウムといった元素に、さらにそれらの元素が素粒子や量子に、さらにはクォークに、さらにその先には紐理論やM理論という、理論でしか証明できないような究極の何かで構成されているように、わたしたちの精神にしても、分析に分析を重ねるなら、究極的には数学の法則に還元されるであろう、と考えるのである。