空の誕生

2015/07/18 08:41

柳澤桂子さんの「われわれはなぜ死ぬのか」を開いてみると、
人類はいつ死を知ったか、の項にひととおり「ヴェーダ」に触れた後で次のように書かれている。

・・・このようにバラモン教では、自我を抹殺することによって死の恐怖から逃れようとした。そのために肉体を痛めつける苦行をおこなう。このような考え方に疑問を持ったブッダによって、紀元前四百年頃に唱えられたのが「空」の思想である。
ブッダブラフマンの存在をも否定して、いっさいのものを相互の関係としてとらえた。この世界は主客未分で実体がない。その唯一全一性をわれわれは実感として把握しなければならない。現象は、実体がないことにおいて、いいかえると、あらゆるものと関係しあうことによってはじめて現象として成立しているのである。
したがって、現象を見すえることによって、いっさいが原因と条件とによって関係し合いながら動いている縁起の世界を体得することができるはずである。たとえば、この「私」という現象を動かないものと仮定して、他との関連を見るとしよう。そのとき、「私」という現象が、つねに「私」でない他のものたちによって外から規定されつつ、現在の「私」とはちがった「私」、「私」でない「私」になりつつあるということが理解される。
このように、物質的存在は、互いに関係し合いつつ変化しているのであるから、現象としてはあっても、実体として、主体として、それみずからとしてはとらえることができないものである。現実には何もない状態であり、これを「空」という。このようにしてブッダは存在の抽象化に成功したのである。
バラモン教にしても仏教にしても、その根源にあるのは、主客一元的なものの見方であり、自我の無を求めるものである。このようなものの見方は、多くの宗教、あるいは哲学にみられるものであり、人類史上、あちこちでそれぞれ独自に生まれている。
このような主客一元的なものの見方やアニミズムは、人類にとって原初の感覚なのではなかろうか。自我の確立の未成熟な、したがって主客一元的なものの見方をする時期、周囲のものに自己を投影して、自分の分身やいのちの再生を感じる時期を通って、現在のようなはっきりした二元的な認識をもつようになったのであろう。神話にはこのような人類の精神発達の過程が読みとれるとされている。
人類の意識の進化とともに、主客二元的なものの見方が強くなったのちも、われわれは、はげしい踊りや呪術者や薬草の助けをかりて主客一元的な世界にもどれることを知っていた。おそらくそれはエクスタシーと呼ばれる状況であり、そこには脳のなかから分泌される麻薬物質が関与しているのかもしれない。
このような宗教の流れを探ってみると、われわれは早くから、非二元論的な視点に立てば自己を無にすることができ、自己の消滅というおそれから逃れられることを知っていたことがわかる。そのような思想をはげしく追及し確立したということは、その時代の人々が自己の消滅に対するおそれを強くもっていたことを示すものであろう。
乏しい資料からは憶測の域を出ないが、まだ自己が確立されず、他人の死の苦しみを自分のものとして感じていた時代があり、やがて、他人の個体性を認識して、遺体を埋葬する時代がつづいたのかもしれない。そして次第に自分という意識が強くなり、自分の死、自分が無に帰するという形而上学的なおそれが強くなっていったのではなかろうか。


これを読んではっと気が付くのは、

主客二元的な感覚よりも主客一元的な感覚の方が古かったのだという、考えてみれば当たり前のことである。これまでなんとはなしに逆の捉え方をしていたことにちょっとした驚きを感じるのである。

これで思い出すのが、少し前に見たTED TALKSの「動物の王国に声を与える写真」である。これは日記にこのように書いた。

フランス・ランティング氏は動物写真家である。その彼がバンクーバーからほど近いある島で自らをクイックワースータヌーク族と名乗る部族の長老に会い、とても興味深い彼らの言い伝えを聞いた。

「昔なぁ、動物たちは皆、しばしば森の奥深くにある聖なる洞窟に集まってなぁ、自分たちは、すがたかたちは違っても中身はみんな同じなんじゃということを寿ぐためになぁ、鴉は羽を、熊は毛皮を、鮭は鱗を脱いで踊り明かしたんじゃ。ところがなぁ、あるとき人間がそこにやってきて、裸で躍っている彼らを指差して笑ったんじゃ。そんで、動物たちはみんな恥ずかしゅうなってしもうて一斉に逃げ出してしもうたんじゃ。それからというもの、誰もこの洞窟には集まろうとはせんようになってしもうた」

ランティング氏は、ジミー・スミスという長老の語るこの物語に深く心を打たれたわけだが、プリミティブな世界観というのは、おそらくどこでもこのようなものだったのだ。

主客一元的な感覚は、もともとはプリミティブなものであった。それがいつの間にか新しいものと思えるほど主客二元的感覚がグローバルなものになってしまっている。

これはなぜだろうか。プリミティブな宗教的感覚がいつの間にか「私」と「他者」とをきっぱりと分けてしまうものに変わってしまった理由というのは、いったいなんだったのであろうか。
それで思い出すのが311のときのことである。あのとき、世界中を驚ろかせたのは、あれだけの大惨事に会いながら、東北の人たちが決して自己中心的にならず、整然と、恰も当たり前のことのように自分よりも他者を優先させる行動をとっていたことであった。世界中の人々にとってそれは、まさに目を瞠るほどの光景だったのである。
自分の家族や親しい者たちが津波に呑み込まれ、行方も分からぬという精神的にも肉体的にも追い詰められた中で、自分よりももっと困っている人たちがいるはずだから、その人たちに先に支援を、というような行為は、世界だけではなく、同じ日本人であるわたしたちをも驚かせた。

このときわたしは、日本にはまだ神道の精神が生きているからだ、と単純に思った。しかし、改めて柳澤桂子さんの述べられていることをよく咀嚼してみると、神道の精神というよりは、きわめて素朴な「私」も「他者」も同じものであるという、まさに主客一元的感覚が起こさせた奇跡だったのである。

では、なぜ? わたしに思い当たるのは、芥川の「神々の微笑」に書かれていることだ。この中で芥川は、八百萬の神がおまします日本には西洋の神、キリスト教的な神の入り込む隙間がないと言っていたのではなかったか。
西欧のキリスト教的な考え方は、父なる神のもとにその子である人類の兄弟たち一人一人が存在するという構図のものである。一人一人とは、個人個人とも言い換え可能で、個人は神を唯一絶対的存在として自らを律っしなければならない。そこに他者に対するいたわりや愛があったとしても、それは神の愛を手本とする個人主義的ないたわりや愛であり、決して「私」と「他者」を同じものとして感ずる感覚から生じたものではない。ここでは、最も大事なのはやはり「私」なのだ。

こう考えを推し進めていくと、地震津波や台風といった自然災害の貯蔵庫のようなわが国に、盛んな布教活動にもかかわらず未だキリスト教が根付かずにいる理由がよく見えてくる。このような民族に必要なのはキリスト教の神様ではなく、やはり「お互い様」の精神なのだ、ということなのである。

 

空の誕生