2015/07/20 09:43
確か「不道徳教育講座」だったと思うが、その中で三島由紀夫が0の恐怖について書いていた。手元にそれがないので確認できないが、三島は大蔵省官僚(郵貯関連)だったから、おそらく実際に自分が体験した恐怖を元にこれを書いたのだろう、と思ったことを憶えている。
0という数字はあるとないとで大違いである。特に金を扱うときなど桁が一つ違ってしまうからである。これが10円と100円の違いならまったくたいしたことはない。しかし100000000000と1000000000000では青くなるだけでは済まない。1000億と1兆では9000億も違ってしまうわけで、3億円の宝くじに3000回も当たらなければこのような大金は得られない。
そんなつまらない冗談はやめにして、本当の0の恐怖について考えてみよう。
0を発見したのはインド人だといわれる。それは、およそ6世紀ころのことであったらしい。実際には、これは0という数字の発明であって、0という概念の発見はこれよりもずっと早かったと思われる。
それがどのくらい昔のことであったかは文献にない以上、確認することはできない。しかし、概念はあってもはっきりした言葉や記号にならない例はいくらでもある。日本人でもろくに知らないわびさびを外国人に理解させるにはどうすればよいだろう。もちろん、外国人にもわびさびを感じる感情があるとしての話(あるに決まっている)だが。
いずれにせよ、人類はいつのころからか、0という概念を手に入れた。
0とは無であることを知るようになった。これは大変なことであった。なにしろ、人というのはあるものからまず理解する生き物だからである。ないものはちょっとひねくれた精神の持ち主にしか思い浮かばない概念なのだ。
しかし無はいつしか日常どこにでも転がっているような死と簡単に結びついた。古代の、あるいは原始の人類にも死=0という数式が理解されるようになったのである。
そして有史時代、0の発明とともに、この死=0の概念は広く人々にイメージされるようになった。
0とは恐ろしい数字である。枕にあげた冗談の話ではない。わたしたちがただの数字に過ぎない0に黒とか虚無とかいった負のイメージをもつようになったのは、おそらくそれが死と深く結びついてしまった結果によるものなのだ。