文武両道と死の哲学

 

2015/07/20 12:26 

 

不道徳教育講座が見つからないので、「若きサムライのために」を探して読んだ。

 

このご時世だから、ということもある。わたしは、国会議事堂前、あるいは首相官邸前がどのようなことになっているか具に見ている。ひところは毎週金曜日の夕方になれば「原発反対、川内止めろ」とかのシュプレヒコールが飛び交っていたが、それがいささかマンネリと思われるようになってくると、今度は「安倍政治を許さない!」だ。これでは、全国に何人いるか分からないが安倍政治さんが気の毒だ。

 

 

 

「文武両道と死の哲学」という三島と福田恆存氏の対談を記録したものであるが、これがめっぽう面白い。今から48年前、半世紀近くも前の対談であるのに、まったくそれを感じさせない。

 

 

 

これはある意味とても重要なことで、それはわが国の体制が50年間まったく変わっていないということを意味している。

 

もう一つ重要なことは、この対談が「文武両道と死の哲学」と銘打ってある点で、この対談が行われたのは三島自決の3年前であったことである。ここにはすでに三島の死の影が表れており、なんとなく福田氏もそれを感じているように察せられる。

 

 

 

対談はまず日本国憲法について、文化について、文武両道についてと進んでいくわけだが、50年後の今この場で行われているとしてもまったく違和感なく読み進めるのである。つまり決して古くはないのである。

 

憲法は、陳腐な表現ながら日本が背負わされた十字架である。あまりに硬質なために、未だ日本人はこの十字架から逃れられずにいる。9条を守るのは実に簡単なことなのである。なにも大きな声を出して守ろうなどと言わなくとも、日本国憲法は鉄壁の城であり、その中で9条は殿様のように左団扇で安穏と時を過ごしていけばよいのである。

 

 

 

その鉄壁の城の中に匿われた9条を、いやその鉄壁の城を打ち崩さずして安保法案を通そうとする、そこにどうしても無理が生じてしまう。それが今の安倍政権の現状であろう。これは、2人の対談のはじめで、三島が縄抜けに喩えたたやり方である。憲法の呪縛を切らずに何とか縄を潜り抜けて、安保条約を改訂しようとする。

 

これは、福田氏の言う憲法当用論的手法であり、また三島言うところの「憲法メニュー論」に相当する。つまり、憲法は要望次第でなんでもメニュー(ここでは自衛隊だが、今なら集団的自衛権行使)に載っていない料理にも応えられるということ。

 

 

 

これについては、また時間のあるときに書くとしよう。