Mare Fecunditatis 豊穣の海と唯識 2

 

 

2015/07/29 16:47 

 

 

 

以上、豊饒の海全四巻を駆け足で巡ってみた。

 

 

 

では、聡子の謎の言葉の考察に入ろう。

 

 

 

この大部の小説に付けられたタイトル「豊穣の海」とは、ラテン語の訳で月にある海の名前である。つまり、豊穣とはいうものの魚一匹住まぬ荒涼としたところなのである。

 

もちろんこれは、この小説の主題を暗示するものであり、聡子の言葉を解くヒントになるものである。 

 

ところで三島は、豊饒の海を書き始めたときには、すでに自死を決意していた。そのことを頭に置きながらこの作品を読むと、彼の生への未練と死への決意との間を往き来するような懊悩がよく理解できる。この小説の骨格をなしているのは輪廻転生であるが、三島が決して宗教にではなく、このような仏教思想による死後の世界に救いを求めていたと取れなくもない。 

 

三島は、それがいつごろからのものであったかは定かではないが、仏教思想に深い関心を持つようになっていた。それが証拠に「暁の寺」の中では本多に唯識論について多くを語らせ、阿頼耶識について考察をめぐらせている。 

 

こう考えていくと、聡子の「それで、その松枝清顕さんというのはどんな人やした」は、このような三島の仏教観から発せられたものであることは間違いない、と思われる。

 

 

 

ここで、阿頼耶識とは、八識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識、末那識、阿頼耶識)の一つで、人間の最も根本にあるものとされる。

 

この中で最も重要なのは、やはり阿頼耶識であろう。仏教思想を科学的に言い換えるのはそもそも無理があるが、もしもこれを科学的に言うとするなら、どのような言葉が適当であろうか。

 

無意識という言葉が科学的とは思わないが、末那識も阿頼耶識もわたしたちが普通に使う無意識に属するであろう。なぜなら、八識の一つにすでに意識が上げられているからである。

 

阿頼耶識とは、わたしが思うに人間だけにあるものではない。なぜなら、わたしはこれを生への執着のことと考えているからである。これは死への恐れ、あるいは嫌悪と言い換えることもできる。生き物には必ず、これが備わっている。これ故に生き物は存続するからである。

 

 

 

さて、仏教は空の思想である。この世にはなんら実体はないのだが、わたしたちが如何にも実体があるように感じるのは、人間には上の八識、つまり心があるから、という教えである。

 

色即是空、空即是色とは、おそらくこれを簡明に表したものであろう。

 

 

 

話は跳ぶが、時間というものを考えてみると、わたしたちは過去、現在、未来というような時間の捉え方をしている。 

 

しかし、過去というものは本当にあったことなのだろうか。これは、聡子の問いに重なるものである。

 

わたしたちには記憶力というものがあるから、いかにも過去が「あった」ように感じているだけのことではないだろうか。

 

 

 

たとえば、空を行く雲を見てみよう。その姿かたちは一瞬の間隙もなく千変万化している。そこには現在、過去、未来の切れ目はない。そもそも雲の形の変化など記憶にとどめようとする人さえいない。

 

これは、わたしがしばしば比喩として用いるπに似ている。

 

無限に、そして永遠に終わることのない円周率のある部分の数列を取り上げてみよう。何億桁にも及ぶ連続した数列を不作為に抽出してみるのである。

 

それが仮にある短期間の雲の変化を表すものだとして、それにいったい何の意味があるだろうか。数の並びようが雲の形の変化を表しているとしても、数字自体はただの羅列である。意味など最初からないのである。数字の羅列が235711131723であろうと、13579111315であろうと、この羅列自体には何の意味はない。

 

 

 

いや、そんなことはない、という反論はあるだろう。

 

 

 

突飛なようだが、確かに、日本は大東亜戦争に負けた。これは史実である。

 

その結果、大和は沈み、武蔵も赤城も加賀も沈められた。帝国海軍旗艦であった長門原子爆弾の標的として沈められた。

 

これらの戦艦、空母の骸はその気さえあれば今でも確認可能である。それが証拠についこの間には武蔵らしき船影が海底深くで確認されている。

 

 

 

これは歴とした過去存在の証拠ではないのか。

 

 

 

しかし、考えてみれば、戦争も、あるいは平和のうちの繁栄も、人間の営みのすべては、湧き立つ雲の中で起きていることとまったく同じものである。

 

それは、確かにどちらも因果で説明できることなのかも知れない。しかしそれは後付けの、後知恵の言い分である。

 

 

 

再び仏教によれば、この世は空である。この空に色を付けるのは「関係性」である。しかしその「関係性」もまた千変万化しその行方は測ることさえできない。なぜなら、人の心もまた千変万化するものだからである。聡子の「それは心心やさかい」は、このことを言っているのだ。

 

 

 

戦争も雲の変化も極めて複雑な「関係性」によって起きている。今の言葉でいえば「複雑系」とでもなるだろうか。

 

その意味で、人間の営みはすべて、戦争も繁栄も、雲がその姿かたちを自らの意志で変えることができないのと同様、制御することはできない。

 

 

 

もちろん、人に記憶がなければ何物をも何事をも認識することはできない。しかし、この記憶能力により、実際には何の意味もない過去をあたかもあったように、あるいは記憶力による推量から未来をこれから起こることであるように感じているだけのことなのである。

 

 

 

どちらも今という手では決してつかみとることのできぬものであるにもかかわらず。