「蒼海に消ゆ」を読む

2011/05/02 09:50


昭和18年10月21日。学徒出陣壮行会のその日、神宮外苑は雨が降っていた。松藤大治は、数少ない東京商大(現一橋大学)の一人として、その雨の中を行進した。

その前夜、一橋寮の庭では焚き火を焚いて壮行会が行われていた。二十歳前の後輩たちが松藤らを励まそうと催したものだ。
彼らは今にも振り出しそうなどんよりとした空の下、寮歌を歌った。

紫紺の闇の原頭に オリオンゆれて鶏鳴きぬ
見よ明けの空地平線 希望の鐘の轟く里
橋人うまず築きゆく 自由の砦 自治の城・・・
 
そして、夜十時を過ぎたころ、寮歌が止み、辺りが静寂に包まれた瞬間があった。そのとき、どこからか賛美歌が聞こえてきた。天使のような女性の合唱だった。
このころの教育は、男女七歳にして席を同じくせず、という儒教に基づくものである。実はその歌声は、武蔵野のクヌギ林を挟んだ背中合わせにある津田塾の女学生たちのものだった。しかも、その歌声は近づきつつあった。彼女達十余人は、燭台の蝋燭の炎を揺らめかせながら、賛美歌を歌い、明日から戦地に赴くことになる松藤ら商大生たちの無事を祈っていたのである。

やがて、商大生らは彼女達を囲み皆で一緒に歌を歌う。そして、その歌は、やはり最後にはある歌にたどり着く。
それは、古の大友家持が歌ったあの歌である。

海ゆかば 水漬く屍

山ゆかば 草生す屍

大君の 辺にこそ死なめ

かえりみはせじ

松藤はアメリカ生まれで、十五歳のときに一人で九州の親戚を頼って日本にやってきた。アメリカ国籍を持っていたから、兵役を免れたはずである。しかし、彼はそれを良しとはせず、出陣を決意した。そして、最後には七生特攻隊員として、昭和二十年四月六日に出撃、南冥に没した。

著者門田隆将は、アメリカ国籍を持ちながらも日本人として、しかも特攻隊員として祖国アメリカに立ち向かった有為な青年の短い一生を追っている。そこには、なぜ、という思いがあったに違いない。なぜ、アメリカ国籍を持ちながら、彼は応召したのか、という大いなる疑問があったに違いないのだ。

松藤大治とは、文武両道を極めた非常に優れた人物である。学問と剣道、そしてトランペット、いずれも一級の腕前であったというが、それが短い生涯で彼が最も愛したものだった。剣道は、サクラメントにいた少年の頃から本格的に始めている。そして、その180センチもある身長と天性の反射神経とでめきめきと腕を上げていった。日本に来てからも糸島中等学校で剣道に打ち込んだ。

「松藤よ、進学を一年延ばしてもらうわけにはいかんか」

その腕前は、全国制覇のためには欠くべからざる剣士として、剣道の全国制覇を狙う堀校長がこう言ったことでも分かる。大治が糸中四年生として、卒業よりも一年早い東京商予科受験を目指していることを承知で、校長は大治に頼んだのである。

一方、先にも書いたように大治は学問でも秀でていた。アメリカでは、桜学園と名づけられた本願寺が運営する一種の塾で日本語を習った。小学生から中学生までの八年間、ここで日本語を勉強した。
また、その人格面でも松藤は非常に温厚な、周囲から信頼を得るタイプであったという。

外交官として日本とアメリカの架け橋になりたい、というのが彼の望みであったが、その望みは叶えられなかった。さぞかし無念であったろう。

しかし、ここに後日談がある。1994年、今上陛下は訪米された。そして、このとき敬老引退者ホームに招かれていた大治の母ヨシノさんと握手をされたのである。これは、まったく予定になかったことである。陛下は、帰りがけにふとヨシノさんを認め、「お元気で・・・」と声をかけられ、握手されたのだという。感激のあまり、ヨシノさんは、ただ頭を垂れるだけで一声も発せられなかったという。

門田隆将は言う。
日系人が歩んだ苦難の歴史を労いに訪れた天皇が、特攻で息子を失った母親に歩み寄り、声を掛けられたのです。その偶然に私は親孝行だった松藤さんの生前の姿を思い浮かべました。
ヨシノさんは、この時の感激を自分にとって「人生の輝ける最大の瞬間だった」と表現し、亡くなるまでそのことを語りつづけました。孫のシンシアさんは、天皇が自分の祖母にかたりかける瞬間の写真を今も大切に保存しています。

当時、ヨシノさんの息子が特攻で戦死したことを知っている人はほとんどいませんでした。そのため、今上陛下は偶然、ヨシノさんの前に歩み寄ったのだと思われます。

私はそのことを聞いた時、浦梅子(大治の従妹)の話(老齢となった梅子さんが、入院中にベッドの中で腰痛に呻吟していたとき、学生服姿の男が現れ、腰を擦ってくれて、それ以来腰痛が消えた、という)を思い出し、同時に自分は何ひとつ親孝行ができないまま先に逝った松藤さんの顔を思い浮かべました。死しても「孝養を尽くす」という言葉が、私の脳裏に浮かんだのです。

昭和二十年四月六日の特攻は菊水一号と名づけられる最大の、そして激烈を極めた作戦であった。優秀な零戦パイロットであった松藤はこの十死零生の戦いに参加し、まさに蒼海へと消えていったのである。
松藤は宮武大尉率いる七生隊の一員であった。この宮武大尉は、並ぶ者がいないと言われたほど厳しい鬼の分隊長であった。しかし、香川出身のこの男は隊員たちから慕われていたという。

門田は、このように書いている。
現に、多くの海兵出の幹部たちが自分の身だけは後方の安全地帯に置いている。しかし、宮武は部下を引き連れて自ら明日の特攻に赴こうとしている。アルミの食器を手に持ったまま、一同もしみじみとなった。それぞれの胸に万感の思いが去来した。

七生を 誓いて散らん 桜花

これは、防衛研究所『神風特別攻撃隊戦闘概要及遺書写』に残されている宮武の辞世である。

松藤大治だけではない。特攻では数多くの有為な若者が死んでいった。
彼らの犠牲とはなんであったのか。今を生きる者は、彼らの思いに心を馳せねばならない。
彼らは無念の思いを殺して、わが国に一度緩急ありし秋には、必ず自分達に続く者たちのあらんことを信じて死んでいったのである。