福田恒存 当用憲法論 引用(狼魔人日記より)

2015/08/14 16:27

狼魔人日記


沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。
福田恒存の「日本国憲法=米製翻訳憲法
      
憲法の日にちなんで、町工場の親方さんのコメントよりの孫引きで、「平和憲法」の欺瞞性を徹底的に粉砕した福田恒存、「当用憲法論」の抜粋を「掲載します。(太字強調と一部重複部分は筆者が編集した)
再度言おう。
県議選の立候補者諸君、沖縄2紙の顔色を見ることなく、堂々と憲法論議をし、改憲を主張しよう!
有権者沖縄タイムスが考えるほどバカではない。
バカは、それに気がつかぬ沖縄タイムスである。
以下引用。
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憲法批判の書物は何冊も出ていますが、私には、福田恒存氏が、昭和40年に発表した、「当用憲法論」、が強く記憶にあります。
今から半世紀近くも前、今とは異なる左翼全盛の、論壇の空気の中、このような文章を発表した、福田恒存氏の勇気と知的誠実には驚嘆しました。

以下、幾つかの文章を紹介させていただきます。

昭和40年5月3日の憲法記念日に、福田恒存はNHKテレビの「憲法意識について」という座談会に出席しました。出席者は5人で、憲法学者小林直樹・東大教授、小説家の大江健三郎国際政治学者、京大教授の高坂正尭、司会者の憲法学者佐藤功、の諸氏でした。
福田恒存以外の4人はそれぞれ微妙な差はあっても、斉しく現憲法肯定論者、所謂「護憲派」であって、福田恒存一人が「改憲派」だったそうです。
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福田恒存、「当用憲法論」より。

・・・欽定憲法改定の際に見逃しえぬ第二の事実は、独立国に非ざるものに、憲法を制定する権利も資格も有り得ないといふ事であります。

仮に占領軍が押し付けたのではなく、自発的に草案を作り、自発的に制定したとしても、事態は同じです。この場合、「自発的」、といふ言葉が既に意味を為さない。自発的であり得るのなら被占領国ではないし、被占領国なら自発的ではあり得ないからです。

こんな解りきった事に誰も気付かなかった筈はない。が当時そのことをはっきり口に出して反対したものは衆議院で六人しかおりませんだした。そのうち四人までが共産党の議員であり、野坂参三氏などは、第九条にも反対し、軍隊を持たぬ独立国は考へられぬとさへ言っております。・・・

・・・断言しても良い、現行憲法が国民の上に定着する時代など永遠に来る筈はありません。第一に、「護憲派」、を自称する人たちが、現行憲法を信用しておらず、事実、守ってさへもいない。
大江氏は覚えているでしょう。座談会で私が、「あなたの護憲は第九条の完全武装放棄だけでなく、憲法全体を擁護したいのか」、と訊ねた時、氏は、「然り」、と答へた。続けて私が「ではあなたは天皇をあなた方の象徴として考へるか、さういうふ風に行動するか」、と反問したら、一寸考えこんでから、「さうは考へられない」、と答へた。記録ではその部分が抜けておりますが、私はさう記憶してをります。或いは氏が黙して答へなかったので、それを否の意思表示と受け取ったのか、いずれにせよ改めて問ひ直しても恐らく氏の良心は否と答へるに違ひない。

が、それでは言葉の真の意味における護憲にはなりません。大江氏は憲法憲法なるが故に認めているのではない、憲法のある部分を認めているのに過ぎず、また憲法を戦争と人権の防波堤として認めているに過ぎないのです。

・・・しかし、巷間憲法論議の最大の焦点は、その第九条でありませう、それについて私の考えを述べます。

前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
この文章を読んで御覧なさい、多少とも言葉遣いに敏感な者なら、そこには自発的意思など毛ほども無いことが感じ取られるでせう。これは譬へば「銃をしまう!」という職業軍人の間に通用した命令形の変種であることは一目瞭然であります。またこれをどう解釈しても、自衛の為の軍隊なら許されるといふ余地は何処にも残されてはをりません。事実、吉田茂元首相は当時そうさう力説してをりました。

現在でも、公法研究者中略七割が同様の解釈をしてをり、第九条のままでも自衛隊の保持は差支無しといふのは二割しかおりません。後の一割が自衛隊を認める様、第九条を改めるべしといふー意見です。処で、この第九条を生んだ根本の考へ方は何処にあるかといふと、それは前文における次の一節です。

・・・日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公平と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

これも変種の命令形であることは言ふまでもありませんが、それにしても「名誉ある地位を占めたいと思ふ」とは何といぢらしい表現か、悪戯をした子供が、母親から「こう言ってお父さんにあやまりなさい」と教へられている姿が眼前に彷彿する様ではありませんか。それを世界に誇るに足る平和憲法と見なす大江氏の文章感覚を私は疑います。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」といふのも、いぢらしさを通り越して涙ぐましいと言ふほかは無い。この場合、「決意」といふ言葉は場違いでもあり滑稽でもあります。

前から読み下してくれば、誰にしてもここは「保持させて下さい」といふ言葉を予想するでせう。といふのは、前半の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」といふのが途方も無い事実認識の過ちをおかしているからです。

これは後に出てくる「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会」といふ一節についても言へるこ事です。
例の座談会で、この虚偽、或はこの五人を揶揄し、刑法や民法の如き国内法の場合、吾われは同胞に対してすら人間は悪を為すものだといふ猜疑を前提にして、成るべく法網を潜れぬ様に各条項を周到につくる、それなのに異国人に対しては、すべて善意を以って日本国を守り育ててくれるといふ底抜けの信頼を前提にするのはをかしいではないかと言った。
第一、それでは他国を大人と見なし、自国を幼稚園の園児並に扱ってくれと言っている様なもので、それを麗々しく憲法に折り込むとは、これほどの屈辱は他にありますまい。

処が小林氏は、あれは嘘でも何でも無い、当時は国連中心主義の思想があって、そこに集ったグループは反ファッシズムの闘争をした諸国と手を握り合って行かうといふき持ちだった、その諸国の正義に信頼しようといふ意味に解すべきだと答へました。

そもそも憲法の中に、猫の目のように変る国際政治の現状判断を織込み、それを大前提として各条項を定めるなど、どう考へても気違い沙汰です。

私は小林氏が本気でさう言っているのか、これもまた欺瞞か、そのけじめが付かなかったので黙ってをりましたが、もし小林氏が本気でさう考へているなら、そして憲法学者といふのはその程度の歴史知識、国際政治観で済むものなら、随分気楽な職業だと思ひます。

史上かって軍縮案が成功した例は無いし、中学校程度の世界史の教科書を見ても解ることですが、戦争の後には交戦国は必ず平和を喜び合い、もう戦争は懲り懲りだと思ふ。が、それは意識の半面だけの事で、済んだ戦争が史上最後の戦争だなどとは決して信じ込みはしないのです。

彼等が、「平和を愛する」、人間である事も、「平和をい維持し、あらゆる悪を地上から永遠に除去しようと努めている」、事も、やはり半面の真理であって、他の半面では、自分は出来るだけその善意を持ち続ける積もりだが、何処かの国がその善意を忘れることもあり得るといふ程度の予想は立てている、その予想が事実になる場合もあり、また善意を持ち続ける自分の力か、ついそれを忘れる場合もあり、しかもいづれの場合も、両者共に善意を忘れたのは相手方だと思い込む、それが人間といふものです。

さういふ、「人間普遍の原理」、に目を塞いで作ったのが、右に引用した現行憲法の前文であり、その帰結が第九条であります。

私は当時の日本の政治家がそれほど馬鹿だったとは思はないし、政治家といふ職業は憲法学者ほど気楽に出来る者とも思はない。

改めて強調するまでもありますまいが、これは明らかに押し付けられて仕方無く作った憲法です。如何にも腑甲斐無いとは思ひますが、当時の事情を考へれば、情状酌量出来ない事ではない。

しかし、それならそれで事情を説明して、国民の前に一言詫びれば゜よいと思ひます。アメリカも公式に謝罪した方が宜しい。さうすれば吾われもさっぱりした気持ちで、それこそ自発的に、吾われの憲法に天下晴れて対面出来るでせう。

今のままでは自国の憲法に対して、人前には連れて出られない妾の様な処遇しか出来ません。
尤も、それを平和憲法として誇っている人も沢山をりますけれど、それは其の人達が妾根性を持ち、事実、妾の生活をしているからに他なりません。・・・

・・・先に「蛇足までに」と申しましたが、現行憲法に権威が無い原因の一つはその悪文にあります。
悪文といふよりは死文といふべく、そこに起草者の、いや翻訳者の心も表情も感じられない。吾々が外国の作品を翻訳する時、それがたとへ拙訳であらうが、誤訳があらうが、これよりは遼に実意の篭もった態度を以て行ひます。

といふのは、それを翻訳しようと思ふからには、その前に原文に對する愛情があり、それを同胞に理解して貰はうとする欲望があるからです。それがこの当用憲法には聊かも感じられない。今更ながら欽定憲法草案者の情熱に頭が下がります。良く悪口を言はれる軍人勅諭にしても、こんな死文とは格段の相違がある。

前文ばかりではない、当用憲法の各条項はすべて同様の死文の堆積です。
こんなものを信じたり有り難がったりする人は左右を問はず信じる気になれません。これを孫子の代まで残す事によって、彼らの前に吾われの恥じを晒すか、或はこれによって彼等の文化感覚や道徳意識を低下させるか、さういふ愚を犯すよりは、目的はそれぞれ異なるにせよ、一日も早くこれを無効とし、廃棄る事にしようではありませんか。

そしてそれまでに、それこそ憲法調査会あたりで欽定憲法改定案を数年掛りで作製し、更に数年に亙って国民の意見を聴き、その後で最終的決定を行ふといふのが最善の策であります。

憲法学上の合法性だの手続きだの、詰まらぬ形式に拘はる必要は無い、今の当用憲法がその点、頗る出たらめな方法で罷り出て来たものなのですから。

※、「当用憲法論」、は、福田恒存・著、『日本を思ふ』文春文庫、並びに、福田恒存全集、第六巻に収められています。

平成24年5月3日