2015/07/30 10:40
わたしの好きな藤原正彦氏によると、数学者岡潔は文化勲章受賞の折、先帝陛下の御下問に次のようにお応えしたという。
「数学は生命の燃焼によって作るのです」
この言葉には、臨席していた吉川英治も感動を覚え、もともと岡が吉川の愛読者であったことから、二人はますます親密になったという。
岡潔は数学者として多変数複素関数論の世界で多大なる業績を上げている。しかし、彼を有名にしているのは、その業績よりもむしろ一見奇矯とも思える日常の振る舞いであったような気がする。
すなわち、晴れた日であってもゴム長で散歩したり、押し入れに下半身を入れ俯せになった姿で研究に勤しんだり、また、数学をやるには芭蕉を研究せねばならないと俳句をやったり、あるいは観音経を唱えたり。
ところで、数学の才能のないわたしが考えても、数学とは理詰めの学問である。いわば論理を積み重ねたものである。なぜ岡潔はそこに情緒が必要と考えたのであろう。
そこで思うのがAIについてである。近い将来、AIは人間の知能を大きく超えるであろうと言われている。しかし、もしも岡などがいうように、数学の解決には情緒が必要だとしたら、本当にAIは数学上の未解決の問題を解決することができるだろうか。たとえば、リーマン予想を解いてしまうようになるのだろうか。
もっとも、上は、AIが人間のような情緒を持たない、という前提付きである。仮にAIなり量子コンピュータ等で構成されるネットワークが人間の脳内ネットワークと同等以上のものとなって自我や感情を獲得すれば、それはもう無機生物と同じである。これは「人間以上」そのものである。新しい進化と言ってもよいであろう。
ただわたしは、いわゆる2045年問題の段階では、事態はここまで深刻にはならないと思っている。AIが飛躍的に進化することは間違いないとしても、この段階では自我や人間並みの感情を持つまでには至らないと考える。
しかし、それはそれとして、情緒というものを持たないAIは、確かに単なる計算機械であって、決して難解な数学上の問題も解けないし、文学においても決してノーベル文学賞に匹敵する作品を生み出すこともないであろう。美を感じることのできない機械に数式の美しさが分かるはずもないし、愛や憎しみが分からぬものに名作が書けるはずはない。
こう考えていけば、結論は自ずと明らかである。やはり岡潔は正しかった、ということである。情緒とは、それ自体が最も基本的な智慧であり、これなくしては、いかなる論理も積み上げることができない、ということである。