超訳 荒野の呼び声5

2015/09/29 08:22

 

第二章 棍棒と牙の掟

バックのダイイービーチでの初日は悪夢そのものだった。一刻一刻がショックと驚きの連続だった。バックは文明の中心から突然何者かに掴み上げられ野蛮の真っただ中へと放り出されてしまったのである。怠惰な、太陽の恵みにあふれた、退屈で漫然とした日々は終わりを告げた。ここには平安もなければ平穏もなく、一瞬の油断もならなかった。すべてが混乱と活動に満ち、一瞬一瞬に身の危険が潜んでいた。弛むことのない警戒心が求められたが、それは、ここにいる犬も人も町の犬や人ではなかったからである。みながみな野蛮で、棍棒と牙による法以外の法を知らなかった。

バックは犬同士の喧嘩を、とりわけ狼に似た犬のそれを見たことがなかったのだが、その初めての経験が彼に忘れようにも忘れられない教訓を与えてくれた。まさにそれは他者の体験を追体験するものであり、これがなければ彼の後半生はどうなっていたか分からない。カーリーがその犠牲者だった。薪を売る店があり、そのそばにキャンプを張っている者たちがいたのだが、彼女が持ち前の人懐っこさでそこにいた一頭の狼くらいのサイズ(といっても彼女の方が倍も大きかった)のハスキー犬に近づいていった。すると、なんの警告も与えずにその犬は一瞬の閃光のように彼女に飛びかかり、上下の顎が閉じる金属的な音をさせたかと思うとすぐに素早く跳び退いた。見るとカーリーの顔は眼から顎まで切り裂かれている。

ヒットアンドウェイの狼式喧嘩であったが、実はそれ以上に狼らしいことが起きていた。三十から四十頭ほどのハスキー犬が喧嘩の場に集まってくると、不気味なほど静かで、それでいて熱を帯びた円を描いて二頭の犬を取り巻いたのである。バックにはその意味することがよく分からなかったし、その犬たちが一様に鋭い目をしたまま口の周りを舌で舐める仕草をしている理由も分からなかった。
カーリーは敵対者に飛びかかっていったが、相手は再び同じように彼女を襲い、そしてすぐにまた身を引いた。この犬は彼女が突っ込んでくる間合いを計り、それを胸で受け止めると奇妙な方法で四肢ごと彼女ををひっくり返してしまった。カーリーは立ち上がれなくなってしまったのだが、これこそがハスキー犬たちが待ちに待っていたことだったのである。彼らは唸り声や吠え声を上げながら彼女に近づいてゆき、彼らに埋もれてしまって彼女の姿が見えなくなった瞬間、毛皮の山の中からカーリーの苦悶の叫び声が上がった。

あまりに突然で、しかも思いがけない出来事にバックは仰け反ってしまった。彼は、スピッツが赤い舌を垂らして笑いながら走り回るのを見、またフランソワが斧を振り回しながら犬どもの塊の中に飛び込んでいくのを呆然と見ていた。三人の男たちが棍棒を持ってフランソワが犬どもを蹴散らすのを手伝った。犬どもを蹴散らすのには大して時間を要さなかった。カーリーが倒れてから二分で最後の一匹まで追い払われた。しかし彼女は、踏みつけられた雪の血だまりの中にぐったりと横になった形で、文字通りずたずたに引き裂かれてしまっていた。フランソワが恐ろしいほど怒って罵りの声を上げた。このシーンは、ときおりバックに蘇ってきて彼を眠れなくした。これがこの世界の有様なのだ。公正さなど捜そうにもここにはない。ひとたび倒されれば、それがおまえさんの最後なのだ。バックは、決して自分は倒されまいと思った。またスピッツが舌を出して笑いながら走り回っていたが、それを見てからというものバックは、この犬が苦々しく、死ぬほど嫌いになった。

カーリーの身に起こった悲劇のショックから立ち直る間もなく、バックは新たなショックを受けた。フランソワが彼にストラップとバックルを装着したのである。これは、バックがミラー判事の家にいたころよく目にした、馬丁が馬にハーネスを装着するのと同じで、つまり彼はこれから馬のような労働に使役される身になったということである。その手始めに、バックはフランソワを橇に乗せて谷の縁にある森まで走り、薪を橇に積むとまた走って帰ってくることになった。彼の自尊心は労役により著しく傷ついたが、持ち前の利口さから抗うことはしなかった。橇を引くなど生まれて初めての経験であったが、強い決意のもと全身全霊を込めて橇を引いた。フランソワは厳しく、迅速な指示の履行を求めたびたび鞭を唸らせた。一方デイブは熟練した橇犬で、バックが指示を間違えるたびに尻に噛みついた。スピッツがリーダーだったが、彼はデイブと同様に熟練しており、おりにつけバックに非難の鋭い唸り声を浴びせたり、また体重を狡賢く引き綱にかけてバックに進べき方向を示したりした。バックの覚えは早く、熟練した二頭の犬とフランソワの教えによりみるみる上達していった。そして、まだキャンプ場に着かないうちに「ホー」が止まれで「マッシュ」が進めの意味であることや、曲り道では大きく橇を振って曲がるということ、それに下り坂では荷を一杯に積んだ橇が勢いよく走る速度よりも早く走らねばならないということを覚えてしまった。

「あいつらサンピキはほんといい犬だ」とフランソワがペラールトに言った。「あんのバック、とてもよく引くし、覚えるのがとってもはええ」