超訳 荒野の呼び声 10

2015/10/11 09:21

第三章

原始に支配された野獣

バックを原始が支配しはじめた。厳しい橇引きの生活の中でそれは日増しに強くなっていった。しかしそれはまだ密やかなものに過ぎなかった。彼の中に新生した狡猾さはまだ威厳と抑制を保っていたのである。彼は新しい生活に自分自身を合わせることに精いっぱいで、そのために彼は喧嘩をし掛けないばかりか、極力争いを避けようとさえした。このような深慮は彼の振る舞いを特徴づけるものとなった。彼は向こう見ずな、あるいは拙速な行動をしなかった。スピッツとの間にはお互い憎悪の念があったが、彼はこれを貫き、攻撃的は行動を取らなかったのである。

しかし一方では、スピッツはバックを不倶戴天の敵と捉えていたので、彼はバックを見るたびに牙をむき出しにした。その上、彼はバックにちょっかいを出し、いずれか一方が死ぬしかないような決闘に持ち込もうとさえした。旅の最初のころ、これが現実のものになろうとしたのだが、想定外のことにより阻まれた。この日の終わりに、彼らはル・バージ湖のほとりに暗くて寒く、そして惨めなキャンプを張ろうとした。雪が吹き付け、風が白熱したナイフのように切りつけてきて、ともかくも彼らは真っ暗にならない間にキャンプ場にたどりつこうと手探りしていたのである。しかし、彼らは次善策に落ち着いた。彼らの背後には垂直に氷雪の壁が切り立っている。ペラールトとフランソワは火を起こし、湖に張った氷の上に寝袋を延べた。テントは荷を軽くするためにダイイービーチを発ったときに捨ててしまっていた。少しばかりの流木で起こした火がせめてもの色どりで、それによって凍り付いた晩飯を解かして暗がりの中で食うのである。

バックは氷の岩の陰に寝床を確保した。余りに暖かくて居心地が良かったので、フランソワが火で氷を解かした魚を配ったときにも進んで受け取りに行く気がしなかったほどだった。しかし、バックがその魚を喰って戻ってきたとき、そこはすでに占領されていた。威嚇の唸り声がして、その侵略者がスピッツであることが分かった。これまでバックはこの天敵との争いを努めて避けてきたが、これは余りの仕打ちだった。彼の中の野獣が吠え声を上げた。彼は憤激の余りスピッツに飛びかかっていったが、これには両者ともに驚いた。スピッツの驚きは特に大きかった。なぜなら、彼のこれまでの経験からいって、彼の天敵は異常におとなしく、その地位は偏にその体重と体格によって保たれているはずだったからである。

フランソワも驚いた。彼らが寝床を離れて縺れあっているのを見て、彼は喧嘩の原因を察知した。
「はっはぁー」彼はバックに叫んだ。「そんなものくれっちまえよ、ええっ。そんな汚ねぇ寝床なんかよぉ」

スピッツも望むところであった。彼も前へ後へと円を描き飛びつくチャンスを伺いながら怒りの籠った叫びを上げた。しかし、そのときだった。まったく予想もしなかった、二頭の喧嘩など吹き飛ばしてしまうほどの、そして彼らの先行きにかかわり、これまでの何マイルという労苦の旅を台無しにしてしまうほどの事態が起きたのである。

ペラールトの口から汚い罵りが飛び出し、同時に棍棒の鈍い骨を砕く音が響いたかと思うと、鋭い苦痛の叫びが聞こえ、たちまち修羅場が出現した。キャンプは突然に毛むくじゃらのこそこそ動き回る集団――飢えた八十から百ものハスキーがキャンプの臭いを嗅ぎつけてどこかのインディアン村からやってきたのだ。彼らはバックとスピッツが争っているうちに忍び寄り、二人の男が棍棒を持って彼らを蹴散らそうとすると、牙をむき出しにして反撃に出た。彼らは食料の臭いに狂乱していた。ペラールトは、食料を入れた箱に一匹が頭を突っ込んでいるのを見つけた。彼の棍棒が鈍い音を立てて痩せた肋骨の上に落ち、箱は地面の上にひっくり返ってしまった。とたんに飢えた野獣たちはパンとベーコンに突撃をした。棍棒が容赦なく彼らを打った。彼らは悲鳴を上げたり吠えたりしたが、その狂乱はパン屑一つなくなるまで終わらなかった。

その間、橇犬たちはねぐらから飛び出したものの、ただ獰猛な侵略者たちに目を瞠るばかりであった。バックはそんな犬をこれまでに見たことがなかった。骨が皮を突き破って出てきそうなほどだったのである。彼らは、眼をギラギラさせ牙から涎を垂れさせながら皮を引き摺って歩く骸骨そのものであった。飢えによる狂気が彼らを恐るべきものへ、そして恐れを知らないものへ変容させていたのである。彼らに立ち向かおうとするものはいなかった。橇犬たちは、彼らを見たとたんに崖の方へ退散してしまった。バックは三頭のハスキーに囲まれ、あっという間に頭と肩を切り裂かれてしまった。その威嚇は凄まじかった。ビリーはいつものように泣き叫んだ。デイブとソルレックスは、あちこちから血を滴らせながらも互いに身を寄せ合い勇敢に戦った。ジョーは悪魔のように牙で襲い掛かった。一度、彼の顎が一頭のハスキーの前足を捉えると、それを噛み砕いてしまった。仮病使いのパイクは、びっこを引いた一頭の上に飛び乗ると素早く首の骨に喰らいつき顎で捻って折ってしまった。バックは泡を吹く敵の喉もとに喰らいつくとその頸静脈を噛み切って血を撒き散らした。その生暖かい血の味が彼の獰猛さを駆り立てた。彼は次の相手を探して身を翻したが、そのとき彼自身の喉に歯が食い込むのを感じた。スピッツだった。卑怯にも横から襲い掛かってきたのである。

ペラールトとフランソワがキャンプの一部を整え、犬たちを守ろうと躍起になっていた。飢えた野獣どもが再び戻ってきたとき、バックはすでにスピッツを振りほどいていた。しかしそれはほんの束の間のことであった。二人の男は、それが狙いで戻ってきたハスキーたちから食料を守ろうと走って引き返さねばならなかった。ビリーは、怯えながらも勇を奮って凶悪な輪から抜け出し氷の山を越えた。パイクとダブは、仲間たちを残してその後を追った。バックが彼らの後を追おうとしたとき、眼の端にスピッツが彼を殺そうという明白な意志を持って飛びかかろうとしているのを捉えた。一度倒されてしまえば、これだけの数のハスキー相手に生き残る望みはない。しかし彼は、スピッツの体当たりに耐え、辛うじて仲間たちと湖の中へと逃げおおせたのである。

この後、九頭の橇犬たちは集まって森の中に隠れ場所を見つけた。追われていたわけではなかったが、惨めな境遇にあることだけは間違いなかった。みな四、五か所の傷を受けており、中には重傷を負っているものもいた。ダブは後足に深手を負い、ドーリーというダイイービーチで最後に仲間に加わったハスキーは喉を酷く食いちぎられていた。ジョーは片目を失い、気立ての良いビリーは耳を短冊のように噛み切られ、一晩中痛みに鳴き続けた。夜が明けると、彼らはよたよたとキャンプに戻ってきたが、略奪者どもが消え失せており、二人の男たちが非常に不機嫌であることを見て取った。食料の丸まる半分を持っていかれたのである。あのハスキーどもは橇の括り紐やキャンバスの覆いまで喰ってしまっていた。事実、到底喰えるはずがないと思われるものにさえ彼らは手を付けていた。彼らは、ペラールトのヘラジカの革で作ったモカシンさえ腹におさめ、フランソワの鞭の先を六十センチほど短くしてしまった。彼は、悲壮なもの思いからふと我に返ると、傷ついた犬たちの状態を調べ始めた。

「ああっ、おまえたちは」と彼は小声で言った。「こんなに傷を付けられてしまって。おそらく、あの狂犬どもにやられてしまったんだな。畜生め!ええ、ペラールト、おまえさんはどう思う」

郵便配達は信じられないというふうに頭を振った。ドーソンまでまだ四〇〇マイルもの道のりが横たわっており、これを走破するには傷ついた犬たちに過酷な強行軍を敢行せねばならない。二時間ほど口汚く罵りと奮闘の末、ようやく
犬たちにハーネスを着け形が整い、傷ついて動きの強張った犬たちは橇を引き始めたのだが、それは彼らがまだ経験したことのないほどきつい戦いの道程であり、それがずっとこの先ドーソンまで続いているのであった。

サーティマイルリバーが大きく横たわっていた。その急流は凍ることを拒み、ただ渦を巻く中と静かな流れの箇所のみが完全に凍っているだけであった。六日間にわたる疲労困憊の末に、この恐るべき三十マイルもの走破をしなければならない。なにがそれほど恐ろしいかといって、その一歩一歩に犬たちと人間の命がかかっているからなのだ。ペラールトは、長い竿を横にして両手に持ち、もしも氷を踏み抜いて水の中に落ちてしまったときにはそれが支えになるよう用心しながら氷の橋を渡ろうとしたが一ダースほど落ちてしまった。凍てつくような寒さは収まらず、温度計は氷点下五十度を下回った。水の中に落ちるたびに、彼は火を起こして下着を乾かさねばならなかった。