超訳 荒野の呼び声 8

2015/10/06 20:20


その日、彼らはフル荷で四〇マイル(六十四キロメートル)走った。翌日も、そしてその後の数日も、彼らは走れる限りの時間を目一杯使って懸命に橇を走らせ自分たちの記録を塗り替えた。いつもの通りペラールトが先頭を走り、かんじきの足で雪を踏み固めて橇を走りやすくさせる。フランソワは、ジーポール(橇のサイドに丈夫な太い木の幹を括り付け、これによって橇の方向を変えたりする)についており、たまにペラールトと位置を交替したが、それはほんとうにごくたまにのことであった。ペラールトは確かに先を急いでいたのだが、彼は氷の状態についての見識に自信を持っており、この秋口の氷が大変に薄くて、その下を勢いよく水が流れていたり、まったく氷が張っていない場所があちこちにあったりするので、自分が先頭に立ってこれを確かめつつ進まねばならないことをよく承知していたのである。

来る日も来る日も、いつ終わるとも知れずバックは綱を引いて走り続けた。いつもまだ夜が明けやらぬうちにキャンプをたたみ、空が灰色に明るみ始めた頃にはすでに何マイルも走っていた。そして夜の帳が降りてからキャンプを張り、犬たちには干し魚が与えられ、彼らはそれを喰い終えるとすぐに雪の寝床の中へともぐりこむのである。バックは絶えず腹を空かせていた。一ポンド半の干し鮭が毎日の糧食として彼には与えられていたが、いったいそれがどこへ行ってしまうのか分からなかった。いつも喰い足りなく常に空腹を感じていた。ところが他の犬たちはバックよりも体重が軽く、一ポンドで足りるように生まれついているせいなのか、それだけの量で十分に体調を維持することができたのである。

バックは身についた上品さをみるみる失っていった。いつものように静かに食事をしていた彼がふと目をやると、他の犬たちはたちまちのうちに自分たちの分を飲み込んでしまい、彼のまだ喰い終わらぬ糧食に襲い掛かったのである。防ぐ間もなかった。彼が慌てて二、三頭を追い散らしているうちに残りの糧食は他の犬たちの喉を通り過ぎてしまっていた。これを防ぐには、彼らよりも速く喰ってしまうほかになく、また空腹が自然にそうすべく彼を駆り立てたが、自分のものでないものまで喰おうという気は起きなかった。彼は他の犬をよく観察し、そして学んだ。パイクという新入りの仮病を使うのがうまくて頭の良い盗人犬がペラールトが背中を向けた隙を狙ってさっとベーコン一切れを口にくわえるのを目にして、バックはその翌日同じ手を使ってベーコン一塊を胃の中におさめてしまった。このためにひと騒ぎが起こったが、彼は疑いさえ受けなかった。その代わりに、ダブという名の要領が悪くて間の抜けた犬がいつものごとく捕まってバックの罪の償いをさせられたのである。

この初めての盗みにより、バックは生への敵意を剥き出しにした北方の地で生きる術を身につけた。もしも状況の変化に素早く自らを適応させる能力がなければ、あっという間に惨たらしく死んでいかねばならない。というよりも、屍となるかそれとも自らの道徳観を粉砕して生きるか迷うことは、情け容赦のない生存競争の中では空虚な障害にしかならない。愛とか友情とかが通用する南方の地であれば、他者の物を尊重し他者の気持ちを慮ることも悪くはない。しかし、ここ棍棒と牙という名の法が支配する北方の地では、それはただ愚行でしかなく、バックが他の犬たちを観察する限り、自分自身その部類に入れられてしまいかねなかった。

バックは理性によって学んだのではない。彼はただ適応したのであり、無意識のうちに新しい世界の規範に自らを合わせただけなのだ。その後彼は、どれほど勝てる見込みがなかろうと決してこの日々の戦いから逃げ出さなかった。ただ、あの赤いセーターの男が棍棒で彼の中に叩きこんでくれた最も基本的で原始的な掟を除いては。文明の中にあっては、彼は道徳的なしがらみ故に死ぬこともあったかも知れない。たとえばミラー判事のお伴をしていて彼を守るために、とかである。しかし、バックがそのような道徳観を捨てながら身の安全を確保してみせたことは、彼が完全に文明の頸木から脱した証左であろう。彼は楽しみのために盗んでいたわけではない。彼の胃が窮状を訴えていたからである。大っぴらに盗むわけではなく、密やかに狡賢く、あくまでも棍棒と牙を文字通り敬遠しながら盗むのである。要約するなら、彼が盗みをする理由は、盗まないでいるより盗む方が簡単だった、というだけのことだったのである。