超訳 荒野の呼び声 15

2015/10/17 22:59


バックは叫び声をあげなかった。彼は体勢を整えないまま肩からスピッツに体当たりしたが、その当たりが余りに強かったために喉を捉えることができなかった。二頭は粉のような雪の上で何度も何度も激しく転びまわった。スピッツはバックの肩を切り裂くとすぐにまた体勢を整えた。彼の歯が二度鋼鉄製のトラップのような音を立てて閉じ、彼は薄い唇を引き上げて牙を見せ、唸り声を上げながら跳び下がって体勢を整える。

その須臾、バックはそのときが来たことを悟った。今こそが雌雄を決し生死を分けるときなのである。二頭の犬が互いに唸りあいながら耳を後ろに伏せ、円を描いて回りながら自身の優位を探りあう、この光景がバックには長らく慣れ親しんだ感覚として訪れたのである。この光景が彼には見覚えのあるもののように思われたーー白い森と大地、月明り、そして戦いの興奮。白皚々たる雪原と沈黙が孕む静寂。そこには微かな囁きもなければ何も動かず葉擦れの音さえなく、ただ犬たちの息が白く纏わりつくようにゆっくりと立ち昇るだけである。彼らはすでにウサギを胃の中に納めてしまっていた。この犬たちはみな性悪な狼犬なのだ。彼らは今、何かを期待して輪を形作っている。この犬たちもまた静かに沈黙を守っていたが、その眼はギラギラと輝き、息はゆっくりと揺蕩いながら上がっている。バックにとって、これは新しいことでもなければ奇妙なことでもなかった。これは、この世界でいつものように繰り返されていることであり、変わることのない物事の進みようなのだ。

スピッツは練達の喧嘩屋だった。スピッツバーゲンからから極地を経由してカナダを通りそしてここバレンへとやってきた。彼は犬たちのやり方をすべて修得し彼らの上に立った。激しい憎しみを抱いていたが、それは盲目的なものではない。自分が相手を引き裂き破壊してやろうと強く思うのと同じように相手も自分を引き裂き破壊してやろうと思っている、ということを彼は決して忘れていなかった。彼は、突進してくる相手を受け止める準備が整わないうちには決して突進せず、相手の最初の攻撃を防御してからでなければ決して攻撃を仕掛けなかった。

バックは、大きな白犬の喉に喰らいつこうと何度も虚しい攻撃を試みた。しかし、その柔らかい肉に牙を食い込ませようとするたびにスピッツの牙の反撃にあった。牙と牙がぶつかりあい、唇は切れ出血したが、バックはスピッツの防御を打ち破ることができない。それで彼は旋風のようにスピッツに覆いかぶさろうと襲い掛かった。何度も何度も彼は、その真っ白な雪のような喉元に、その表皮のすぐ下には命の泡がぶくぶくと音を立てている、そこに牙を沈めようとしたが、スピッツはそのたびにバックに切り傷を与えすぐにまた身を引いてしまうのだった。それでもバックは突進し、またも喉元に食らいつこうとしたかのように見せかけておいて、すぐに頭を引くと横に曲げ肩と肩でぶつかり、その圧力でスピッツをねじ伏せようとした。しかしスピッツは、バックの肩を切り裂くと同時に軽快に跳び下がった。

スピッツはまったく手傷を負っていなかったが、バックは血に塗れ呼吸も激しい。戦いはだんだんと至死的様相を帯びてきていた。そして沈黙を湛えたまま狼的輪形陣は、いずれかの犬が倒れるのをじっと待っている。バックが息を整えるために手数を抜くとスピッツはすかさず攻撃を仕掛け、よろめいたままバックの足が回復しないよう図った。バックが一度転倒しそうになったとき、六十頭の犬たちが作る輪がさっと縮まった。だがバックが辛うじて空中で体勢を整えると、輪はまた元に戻って次のチャンスを待った。

しかしバックはある秘密兵器を所有していた。イマジネーションである。これまで彼はただ本能の赴くままに戦っていたが、頭を働かせることもできたのである。彼は再び肩を目掛けて飛びかかった、かのように見せながら最後の瞬間、雪面に着くくらい身を低くして滑り込んだ。彼の顎はスピッツの左前足をがっしりと捉え閉じた。骨の砕ける音がして、白い犬は三本の足でバックと対さざるを得なくなった。彼は何度もスピッツを倒そうと試み、先ほどの技を繰り返して今度は右足を折ってしまった。その痛みと身動きができない窮状にも関わらず、スピッツは立ち上がろうと狂ったようにもがいた。その目に映るのは、静かなる輪形陣とぎらつく無数の眼、それに垂れ下がった長い舌、そして銀色をした息が巻き上がりながら近づいてくる光景であり、これは彼が過去に打ち倒した敵に訪れたのと同じものであった。ただ違うのは、今回は彼自身がその打ちのめされたものであったことである。

もはや彼には一縷の望みもなかった。バックに容赦はなかった。慈悲とは軽い罪にのみ適用されるものである。彼は最後の詰めにかかった。輪形陣は、バックがハスキーたちの息を両サイドに感じるまでに縮まっていた。彼は、スピッツの後ろに、両側に、スピッツに狙いを定め今にも飛びかからんばかりに手薬煉を引いているハスキーたちの姿が見えた。だがそのポーズは凍結してしまったかのように動かない。生きる物すべてが石に変えられてしまったように動きを止めてしまった。ただスピッツだけが震え、毛を逆立てて前後によろめきながら、間近に迫った死から逃れようと恐ろしいほど凶暴な唸り声を上げている。バックはそれに襲い掛かり、さっと身を引いた。そのとき、肩と肩がぶつかりあいスピッツが倒れた。暗い輪形陣は月明かりの下、一点に絞られスピッツの姿が消失した。
ついに宿敵を倒した勝利者、原始的野獣バックは満足げに立ったままそれを眺めた。