超訳 荒野の呼び声 18

2015/10/26 22:53

またあるときには、この毛深い男は火のそばにしゃがんで頭を両脚の間に入れて眠った。このようなとき、彼の両肘は両膝の上に置かれ、両手は恰も雨をその毛深い腕で防ぐかのように頭の上で組まれた。そしてバックは、火の向こうの円形の闇の中にギラギラした赤い燠のようなものを、常に二つずつペアになった彼にはなじみ深い大きな肉食獣たちの眼を見ることができた。そしてまた彼は、その獣たちが下藪を踏み鳴らす音や夜陰の中で立てる声を聞いた。彼は無意識のうちに、ユーコン流れる土手の上で、夢見心地に火を映した眼を瞬かせ、別の世界が立てる音や光景に背筋の毛を起こし、両肩から頸筋にかけての毛を逆立たせるのであった。彼は微かな抑えた声で切なく吠えたり、あるいは微かに唸ったりしていたのだが、料理をしていたスコットランド系が「おい、バック、そろそろ起きろ」と叫んだので、その瞬間に別の世界は消え失せ、現実の世界が彼の眼に飛び込んできて、彼は恰も本当に眠っていたかのように欠伸をしながら大きく伸びをするのであった。

今回の仕事は郵便物を荷にした厳しい旅であり、このために犬たちは疲弊しきっていた。ドーソンに到着した時からすでに彼らの体重は減り体調も悪くしていたので、少なくとも一週間から十日の休養が必要だったのである。しかし、たった二日の間に、彼らはバラックからユーコンの岸まで重い郵便物を乗せて走らねばならなかった。犬たちは疲労困憊し、橇使いは不平をたらたら吐き出し、さらに悪いことには、毎日雪が降った。これは雪面が柔らかいために橇のランナーの摩擦が増え犬たちの労力も増えることを意味する。もっとも、橇使いたちはそのことをよく承知していて、犬たちにできる限りのことはしていた。

夜になると、犬たちは真っ先に食事を与えられた。犬たちは橇使いよりも先に飯を与えられたのである。そして、橇使いたちは、犬たちがちゃんと眠りに着くまで、自分たちが寝袋に入ることはなかった。しかし、それでも犬たちの力は落ちていった。冬の訪れとともに彼らは橇を引き摺ってくたくたになりながら総計千八百マイル(二千九百キロメートル)を走った。一言で千八百マイルとはいうものの、それは苦闘の連続であった。バックはそれを受け止め、仲間の犬たちがきちんと仕事をするよう活をいれ指揮監督を行ったが、彼自身も余りに疲れていた。ビリーは毎夜、寝言で叫んだり泣き声を上げた。ジョーはさらに不機嫌になり、独眼のソルレックスは、見えない側はもちろん、利く方の眼側からも近寄れなくなった。

しかし、最も苦しんでいたのはデイブだった。何か様子が変だった。以前にも増して不機嫌でいらいらするようになり、キャンプが張られると真っ先に寝床を掘るようになった。食事は、彼を気付かって橇使いが魚をそこまで持ってきてくれた。彼は、ひとたびハーネスが外されると、翌朝ハーネスを締める時間になるまで決して動こうとはしなくなった。ときどき、橇が何かに引っかかって急に止まったときや、あるいは橇をスタートさせるために引き紐を全力で引くとき、彼は痛みに叫び声を上げた。橇使いは彼を調べたが何も悪いものは見つけられなかった。橇使いたちは皆、デイブの様子に注意するようになった。彼らは晩飯の後や寝る前の煙草の時間にデイブについて話し合い、ある晩結論を出した。デイブは寝ていたところを引きずられて火のそばに連れてこられ、あちこち押されたり突かれたりして何度も悲鳴を上げた。何か内臓に異常があることは分かったが、骨が折れているわけではなく原因を究明することはできなかった。

カッシアーバーに着いた頃、デイブはかなり弱っていて、引き紐を着けたまま何度も転んだ。スコットランド系が橇を停止させるとデイブをチームから外し、ソルレックスをデイブの位置に着けた。彼の考えは、デイブを少しでも休ませるために彼を解き放ち自由に橇の後を走らせることにあった。しかしデイブは、病気であるにも関わらず、引き紐を外されることに憤懣やるかたない様子で、不満と怒りの籠った唸り声を上げ続け、ソルレックスが自分の長く続けてきたポジションに配置されると、胸を引き裂かれたような悲痛の泣き声を上げた。橇を引いて走るというプライドは彼の分かち難い身体の一部であり、たとえ病気で死のうとも、他の犬に自分の仕事を取って代わられるのは耐えられないことだったのである。

橇が走り始めたとき、デイブは橇の横の踏み固められていない柔らかな雪の上を奮闘して走りながら、ソルレックスに歯の攻撃を浴びせ、体当たりして反対側の柔らかい雪の方に押しやって自分自身は引き紐の中に入ろうとした。そしてその間、悲しみと痛みにひいひい泣いたりキャンキャン叫んだりし続けた。スコットランド系は、鞭で打って彼を引き離そうとしたが、彼は鞭の刺すような痛みさえまったく気にならないようであった。また男の方もそれ以上彼を痛めつける気にはなれなかった。デイブは、橇の後を静かに走るほうが楽であるにも関わらず、そんなことは考えにも浮かばないようで、常に走りにくい橇のサイドの柔らかい雪の上を悪戦苦闘しながら走って疲弊していった。そしてついに倒れ、そこから動けなくなり、長い橇の列が通り過ぎていくまで物悲しい声で吠え続けた。

しかし橇の隊列が一斉に止まると、彼は最後の力を振り絞ったようによろめきながら立ちあがり、自分の橇のところまで走っていって、ソルレックスの隣で立ち止まった。彼の橇使いは、後ろの男から火をもらって自分のパイプに火を付けると、どうしたものかとしばらく思案をした。それから彼は、元の自分の位置に戻って犬たちをスタートさせた。犬たちはいつになく橇が重く思ったように進まないので、訝し気に頭を後ろに向けたが驚いて橇を止めてしまった。橇使いもまた驚いた。橇が動かないはずだった。彼は連れの男を呼んで、その光景を見させた。デイブがソルレックスの引き紐を左右とも噛んで、橇の前の彼の定位置に立っていたのである。

デイブの眼は自分にも橇を引かせてくれと懇願していた。橇使いは困り果ててしまった。彼の連れから如何に犬というものが、仕事を奪われてしまったときに胸を引き裂かれて死んでしまうかを聞かされていて、その一例としてよく彼らの口にのぼるある歳がいってだったか、あるいは怪我をしたためだったか、ともかく橇が引けなくなってしまった犬の話を思い出した。その犬は、引綱を切られた瞬間に死んでしまったのである。それで彼は、デイブはどのみち死ぬのであるから、せめて引き紐を着けたまま、心安らかに死なせてやろうと考えた。デイブは再びハーネスを装着され、誇らしげに引き紐を引き始めたがのだが、内臓の痛みのため以前にもまして大きな苦痛の叫び声を上げた。何回も彼は倒れてそのたびに引き摺られ、最後には橇に轢かれて片方の後足を傷つけびっこを引くようになってしまった。

しかし彼は、橇がキャンプに着くまで頑張り続け、その晩、橇引きは彼のために火のそばに場所を与えた。朝になると、もう橇が引けないほど弱っていることが分かった。ハーネス装着の時間が来ると、彼は橇引きのところまで這うようにしてやってきた。痙攣のような挙動を見せながら立ちあがったがよろめいて倒れてしまった。それでも彼は、仲間たちがハーネスの装着をされているところまで虫のように這っていった。彼は、前足で身体全体を引きずってさらに十センチほど前に進んだ。彼の全身の力はそれで尽きてしまったのだが、仲間の犬たちが見守る中、彼は雪の上にうずくまったまま大きく喘ぎ、それでも彼らの元に進もうとした。犬たちは、河岸の帯状になった樹々を後にしたとき、デイブの悲し気な吠え声を聞いた。

橇隊は停止した。スコットランド系が後にしたキャンプにゆっくりと戻っていった。男たちの話声が止んだ。レボルバーの音が一発響いて、スコットランド系が急いで戻ってきた。鞭が打たれ、ベルの音が楽し気に鳴り響いた。橇の一行は再び進み始めたが、バックはあの樹々の向こうで何が起こったか知っていたし他の犬たちも皆それを知っていた。