超訳 荒野の呼び声

2015/09/20 12:28


荒野の呼び声

                            原作 ジャックロンドン
                              訳 荒野一狼

古き放浪の憧れにこころ躍り

文明のくびきに歯噛みする

再びその長き冬の眠りより

醒めて野生の血を呼び起こせ

第一章 原始の真っただ中へ


バックは新聞を読まなかった。故に彼は、これから自分の身になにが起ころうとしているのか知らなかった。ただ彼ひとりに限ったことではない、すべての、分厚く長い毛並みと強靭な筋肉を持つすべての犬たちが、プジェット湾からサンディエゴまでの犬たちすべてが同じような運命の危機に瀕していたのである。
なぜなら、男たちが、極北の薄闇の中で、山吹色をした金属を探り当てようとしていたからであり、また蒸気船の会社や旅行会社がそれに沸き立っており、何千という数の男たちが北地を目指していたからである。
彼らは犬を欲しがっていた。その犬というのも重労働に耐えるだけの逞しい筋肉を持った大型犬でなければならず、また極寒に耐える分厚い毛皮を持つ犬でなければならなかったのである。

バックはサンキストクララバレイの大きな家に住んでいた。そこはミラー判事邸と呼ばれていた。大通りからは離れ、木々の中に姿を埋もれさせていたが、それでも瀟洒なベランダが四方をぐるりと一回りしているのが一瞥できた。屋敷は、入り組んだ枝を張り巡らす背の高いポプラ並木の下、緑なす芝生の中をくねりながら続く砂利道で大通りとつながっていた。家の裏側は、正面に比べるとさらに広大であった。大きな厩があって一ダースほどの馬丁と小僧が働いており、また葡萄摘みたちのための長屋があり、いつ果てるとも知れぬ屋外便所が整然と列をなし、長い葡萄の棚があり、また緑の牧草地が広がり果樹園と苺畑がある。さらにはアーテシャン式の井戸から水をくみ上げるポンプ設備とセメントで作られた水槽があって、判事の息子たちが朝一番これに飛び込んだり、暑い午後には水浴びをするのだった。

そして、この広大な領地を我が物顔に統べているのがバックなのである。ここで彼は生まれ、それからの四年間をここで過ごした。これほど広い敷地であったから、バックのほかにも犬たちがいないはずはなかったが、彼らは数のうちに入らなかった。彼らは、飯場のようにごった返す犬小屋に住み、どこからともなくやってきてはまたどこへともなく出ていくだけの存在であり、またトゥーツという名の柴犬のように家のへこんだところで目立たぬように生きているか、あるいはイザベルという名のメキシカンヘアーレスのように家の中に籠ったきりで、めったに外に出ることもなければ、たまにドアの隙間から鼻を出すだけという変わった犬もいた。一方、数に入る部類としてはフォックステリアたちがいて、窓から顔をのぞかせるトゥーツやイザベルに吠え立てては脅かし、そのたびに箒やモップで武装した女中たちに追い払われていた。

しかしバックはもちろん、家の中で飼われているわけでも犬小屋に住んでいるわけでもない。この家のすべてが彼のテリトリーだったのである。彼は判事の息子たちと一緒にセメントタンクに飛び込み、また一緒に猟に出かけもした。朝と夕べには、モーリーとアリスという判事の娘たちがする長い散歩エスコート役も仰せつかっていた。冬には、判事の書斎で、シューシューと音を立てて燃える薪の音を聞きながら、その足元に寝そべった。また、彼は判事の孫たちを背中に乗せてやったり、芝生の上で彼らを転がしたりして遊んでやったりもした。さらには、彼らの厩舎にある泉までの、あるいはそのもう少し先にある南京錠の掛かった柵のある苺畑までのささやかな冒険のお供をするのも彼の務めだった。たむろするフォックステリアたちの中を彼は王のように悠然と進み、トゥーツやイザベルなど彼の眼中になかった。彼は、判事の領地内すべての、忍び寄るもの、這うもの、飛ぶものたちの王であり、人間とてそれは例外ではなかったのである。

彼の父エルモは巨大なセントバーナード犬で、かつては判事の分かつことのできぬコンパニオンであったので、バックが今その跡目を継いでいるのは極めて自然な成り行きであった。彼は、父親ほどには大きくなく、体重は百四十ポンド(六十七、八キログラム)ほどであったが、それは彼の母親のシェップ、スコッチシェパード犬の血を受け継いでいたからである。とはいえ、百四十ポンドが奏でる体格と品格は彼の生活に豊かさと尊厳を与え、彼に王族のスタイルを身につけさせた。仔犬のころからの四年間、ずっと貴族の生活を送ってきた彼には自己中心主義的な詰らない自尊心が育っていたが、それは、田舎紳士によく見受けられる世間知らずによるものであった。
しかし、彼自身は甘やかされた家犬になることはなかった。狩猟や身に備わった野外生活の喜びは彼から脂肪を削ぎ、代わりに筋肉を強靭なものにした。それと、冷たい水を浴びる種族のように、水を好む性質が彼の強壮と健康の維持に役立った。

これが千八百八十七年秋のバックの姿であり、クロンダイクの地が世界中から氷結の北の地へと男たちを引き寄せた年のことであった。しかし、バックは新聞を読まなかったし、庭師手伝いのマニュエルが好ましくない知人であることも知らなかった。マニュエルはある罪悪にどっぷりと浸かってしまっていたのである。彼はチャイニーズロッテリー(中国式宝くじ)にのめりこんでいた。そして、この種のギャンブルには付き物のもう一つの罪――彼はこれから抜け出せないでいたのである。このことは、彼の地獄行きを確実なものにしていた。なぜなら、ロッテリーには金が必要であったし、そのような金というのは、庭師手伝いの給料では妻と子供たちを養うのが精いっぱいで、とても賄えるものではなかったからである。

そうして、忘れることもできないマニュエルの背信の日、判事は干葡萄生産者組合の会合に出かけており、息子たちもまたアスレチッククラブの集まりで忙しかった。マニュエルがバックを連れて果樹園を通り過ぎる姿を見たものは誰もいなかったし、バック自身も散歩に連れ出されたという印象しか受けなかった。ただ一人の男を除いては、大学公園という名の駅に着くまで誰一人として彼らの姿を目にするものはいなかったのである。この男とマニュエルとの間で二言三言やり取りがあり、男の手からマニュエルの手に金が渡った。

「そいつを運び込む前にもう一仕事やってくれ」と男がぶっきら棒に言い、マニュエルが丈夫なロープを首輪の下に通した。

「これを捩じりあげてやりゃ、こいつは息もできなくなる」マニュエルが言うと、男は何かぶつくさ言って了解したようだった。

バックは、静かに気品をもってロープを受け入れた。それは心からのものではなかったが、彼は顔見知りであれば信用したし、彼らが彼の身体に手の届かぬ距離にいる限りは許容した。しかし、バックはロープの端が見知らぬ男の手に握られるのを見ると威嚇の唸り声をあげた。彼がこのような不快を表すことは稀で、それは彼の自尊心が、従うよりは従えさせることにより慣れ親しんでいたからである。しかし、バックが驚いたことには、ロープが彼の首を引き締めたのである。息がまったくできなかった。憤激のあまり彼は男に飛びかかった。男は辛うじてそれを避けると彼を喉もとで引き絞った。そして巧みにロープを捩じってバックを裏返しにした。バックが怒りに悶えているうちにロープはさらに情け容赦なく締め上げられた。彼の口からは舌が捩じり出て、その胸は無駄に空気を求めて喘いだ。一生の間で、これほど酷い扱いを受けた経験も、またこれほどの怒りを覚えたことも彼にはなかった。しかし、彼からは次第に力が抜けていった。その眼は怒りに燃え立っていたが、やがて汽車が入り、二人の男の手によって貨物車に放り込まれたときには彼の記憶は失われていた。

次に彼がおぼろげながら気が付いたのは、舌の痛みと何かによって運ばれているような揺れの感覚であった。嗄がれた鋭い汽車の汽笛が交錯し、彼が今どこにいるのかを知らせた。彼は判事とともにしばしば汽車の旅をしたが、貨車での体験は初めてであった。彼は眼を開いたが、抑えることのできない憤激とともにその眼に飛び込んできたのは、彼をさらった男の姿であった。男は彼の喉にさっと手を伸ばしたが、バックの素早さにはかなわなかった。彼の顎は男の手の上で閉じ、首を絞められ気を失うまで開かなかった。

「くそっ、やられちまった」と男は声を上げたが、すぐにその噛み潰された手を、何事が起きたのかと関心の目を寄せた荷物運びの男から隠した。「俺はこいつをボスのためにフリスコまで連れていかなきゃならねぇんだ。そこでイカれた犬を診る医者というのがいて、こいつの性根を叩き直してくれるらしいんでな」

その晩の出来事によほど興奮したのか、この男はサンフランシスコのウォーターフロントに面する酒場の裏倉庫で、これ以上ないほど雄弁に彼自身のことを喋くりはじめた。

「俺が手にしたのはたった五十ドルなんだぜ」と男は不平を述べた。「正直、現金で千ドルもらったってこんなこたぁしたくはねえわさ」

彼の手は血でぐっしょりになったハンカチで覆われており、右のズボンの裾は膝から踝まで裂けていた。

「で、もう一人の野郎にはいくら入ったんだい?」バーの店主が聞いた。

「百ドルだ」が応えだった。「奴さん、俺にはびた一文よこさねぇし、何の手助けもなしにだ」

「それじゃ、都合百と五十ドルというわけかい」店主は勘定をした。「あの犬にはそんだけの価値がある気もしないではないが、それとも俺の見立て違いかな」

犬さらいの男は、血でぐっしょりのハンカチを剥がすとその切り裂かれた手を見つめた。「狂犬病にならなきゃいいが・・・」

「もしもそんなことになったとすりゃあ、もともと絞首刑になる定めだったんだと思ってあきらめるこった」そう言って店主は笑ったが「さあ、あの大荷物を引っ張る前にその手を出してみな」と付け加えた。

眩暈、そして耐えられぬほどの喉と舌の痛みに息も絶え絶えだったが、バックは自分を痛めつけた相手に立ち向かおうとした。しかし彼は、そのたびに投げ出され、また繰り返し首を絞められた。彼らはついに分厚い真鍮製の首輪に鑢をかけて切り離しロープを外すことに成功すると、バックを檻の付いたコンテナに放りこんだ。

そこにじっと身を伸べ、その忌まわしい夜の残りを、バックは怒りと傷ついたプライドを癒して過ごす以外になかった。彼にはこれがいったいどうことなのか、まったく理解できなかった。あの見知らぬ男たちはいったい自分に何をしようとしているのだろうか? なぜ彼らはこんな狭い場所に自分を閉じ込めておくのだろう? 彼にはさっぱり理解できなかったが、微かながら今何らかの災厄が自分の身に降りかかろうとしているという感覚がずっと胸を捉えて離さなかった。
その夜、何度かコンテナの戸が音を立てて開けられ、バックはそのたびに、ひょっとすると判事か、あるいは判事の息子たちが自分を救い出しに来てくれたのではないか、との期待感から跳ね起きた。しかし、蓋を開けてみれば、それはまるまっちい顔をしたバーの店主が獣脂に弱々しい火を灯して彼の様子伺いに来ただけのことであった。バックの、期待に打ち震えながら喉から飛び出す吠え声は、そのたびに捩じれて凶暴な唸り声へと変わった。