奔訳 白牙45

2017/05/09 21:00

彼は、背中を地面につけたまま四肢を宙に投げ出すという馬鹿げた何の益もない姿勢を取らねばならなかった。白牙の本能はそのような無防備な体勢から逃げ出すよう告げている。このままでは彼は何の防御もできないのだ。もしもこの人間奴に彼を傷つけるというつもりがあれば、逃げられないということを白牙は知っていた。いったいどうしたら、足を4本とも上に向けたまま逃げ出すなんてことが出来ようか? しかし、服従心は彼の恐怖を抑え込み、彼は微かに唸り声を上げるだけであった。この唸り声だけは、彼も抑えることができなかった。またそれで男が怒って彼の頭を殴るということもなかった。さらに不思議なことには、白牙は男の手が彼の腹の上を行ったり来たりするたびに何とも言えぬ心地よさを覚えた。彼は横に転がっている時、唸ることを忘れていた。指が耳の付け根のあたりを鋤で梳くように強く撫でると、心地よさは一層強くなった。そしていきなり、最後の一撫でのように男は白牙を撫でると彼を置いたまま離れていったので、白牙からは一切の恐怖心が消え去った。彼は人間との接触の中で多くの恐怖を味わうことになったが、このときの経験は、彼にとって人間と恐怖の連鎖を切り離す決定的な記念の出来事となった。

それからしばらくして、白牙は奇妙な声が近づいてくるのを聞いた。彼は即座に分析を行い、それが人間たちの出す音であると判断した。数分ほどして、彼らの一族の残りの者たちが行進でもするようにぞろぞろとやって来た。彼らは多くの男たちや女たち、それに子供たちで、総勢四十人ほどの全員が重そうなキャンプ道具や衣類などを背負っている。それに加え、多くの犬たちもいた。そしてこれらの犬たちもまた、仔犬を除き皆がキャンプ用の道具を身に課されていた。彼らの背の両側には袋が強く括り付けられていて、彼らは二十から三十ポンド(九キログラムから十四キログラム)ほどの荷を運んでいるのであった。

白牙は犬を見たことがなかったが、彼らを一目見た瞬間から、少し違っては見えるが自分と同種の生き物であると感じた。しかし彼らは、彼とその母親を目にすると、狼とは少し違う態度を見せた。いきなり飛びかかってきたのである。白牙は毛を逆立てて唸り声を上げ、口を開けて突進してくる犬たちの顔を切り裂いたが、すぐに彼らの下に組み伏せられ、彼らの鋭い牙を身体に感じたが、彼自身も下から彼らの脚や腹に噛み付いた。それは大騒動であった。彼は、キッチェが彼のために闘おうと唸り声を上げるのを聞き、また人間たちの叫び声や棍棒が犬たちの身体を打ちつける音や、打たれた犬たちが痛みに上げる悲鳴を聞いた。

たった数秒ほどで、彼は元の体勢に戻った。彼は今、人間たちが彼の同類たちの容赦ない牙から、いや彼とは少しばかり種の違うものたちから彼を守るために棍棒や石で犬たちを蹴散らすのを見ることができた。彼には公正さという抽象的概念に対する明確な理解はなかったけれども、それでも彼なりに人間たちの公正さを捉え、彼ら人間の存在は、法を作り、その法を実践することにあると考えた。そして彼は、そのような法を施行する力に感謝を覚えた。彼がこれまでに遭遇した他の生き物たちとは違って、彼らは噛みつきもしなければ引っ掻きもしない。彼らは力を生きてはいないものによって行使する。死んでいるものたちは噛みつかない。しかし、棒や石はこの不思議な生き物の命ずるままに空中を生き物のように飛び、犬たちに苦悶の鳴き声を上げさせるのだ。

彼にとって、このような力は尋常のものではない、理解を越えた超自然の、神の如き力であった。白牙は、当然ながら神について何も知らなかった。ただ彼が知るのは知識を超えたものであり、彼が人間に抱く神秘と畏れは、人間が天上の存在が山頂に立ったまま両手から稲妻を発するのを目にした時に感ずるようなものであった。

最後の一匹が追い払われた。喧騒は収まった。白牙は自分の傷を舐めながら、初めての群れとの出会い、そしてその群れの残酷さについて思いを巡らしていた。彼は、母親と片目の父親と自分以外に自分と同じ種が存在することなど夢にも思わなかった。