ジャックロンドンについて(荒野の呼び声を訳しおえて)

2015/11/22 10:16


荒野の呼び声(The Call of The wild)を曲りなりにも訳し終えてみて、改めて思うのは、百年以上も昔に世に出たこの作品が現代においても十分に通用する魅力をもっているということである。これは、ジャックロンドンが単なる流行作家ではなくアメリカの一時代を代表する古典的作家であることの証左ともいえよう。

ジャックロンドンの生い立ちについては、ここでいまさら述べる必要はないであろう。wikiで調べればかなり詳細に知ることができるからである。
人の一生を要約することなどできはしないが、彼の人格と生涯を形成する上で重要なポイントとなっているのが、その父親との関係であろうと思われる。
彼の父ジョン・ロンドンは継父であった(父親と同名であったため、ジャックと改名されている)。本当の父親は占星術師であったチェイニーという男と言われているが、この男は子供が生まれることを望まず、母親フローラ・ウェルマンはチェイニーと別れ、降霊会で知り合ったジョン・ロンドンと結婚している。ジャック・ロンドンが生まれたのは翌年の1月13日のことである。
いずれにせよ、彼は生まれたときから自分の生物学的父親を知らなかったのである。このことが後の彼の生き方に影響を与えなかったはずはない。

ジャックは、小学校は卒業したものの、家計を助けるために新聞配達や缶詰工場で働くなどして、教育らしき教育を受けてはいない。少年期には牡蠣泥棒を生業にしていた時期さえあった。ただ、カリフォルニア大バークレー校に一学期だけ学んでいることから、勉学意欲があり頭脳も優秀であったことがうかがい知れる。

さて、彼の代表作ともいえる「荒野の呼び声」であるが、この作品ともう一つの代表作「白い牙」は対称的であると言われる。
この対称とはちょうど鏡のような対称性のことである。
もちろん、ジャックロンドンは意図的にこれをやってみせたのである。そこに出版社の意向があったかどうかは知らないが、わたしは面白いアイデアであるとは思う。
「荒野の呼び声」のバックが文明から荒野へと向かうのに対し、ちょうど鏡の向こう、つまり荒野の方から「白い牙」の主人公白牙はバックのいた側、つまり文明の方に向かってくるのである(彼自身が金を求めて文明のサンフランシスコから未開の地へと旅をしたその往と復の体験がこの両作品に反映されているのかも知れない)。

出版社の意向があったかどうかはともかく、ここで如実に浮き上がってくるのは「文明と荒野」、あるいは「文明と野生」という両極にあるものの主題性である。
ジャックロンドンの時代(1876年~1916年)は、日本でいえば明治から大正の年代である。汽車、汽船の時代であり、電気はまだ一般には普及せず、馬車や人力車が往来を走っていた。つまり文明とはいっても、まだ曙光が射しはじめたばかりであった。

しかし、カリフォルニアにはすでにケーブルカーが走っており、これが当時の文明の最先端の出来事であったことは「白い牙」の中で、この電車が主人公白い牙の悪夢となって現れることからも読み取れる。

話を戻せば、人の生涯が簡単に要約できないように、ジャックロンドンの作品そのものもそう簡単に要約できるものではない。文明と野生がこれらの小説のテーマだと言ってみても、それでスーッと胃の腑に落ちるものではない。

現代は、少なくともジャックロンドンの時代と比較してみれば、いや比較のしようがないほどに文明が進んだ。そして、あまりの文明の進みように、わたしたちは何か本当に大切なものを失ってしまって、決して幸福にではなく、むしろ不幸に向かって喜々突き進んでいるのではないか、という疑念さえ感じているような有様である。

したがって、ジャックロンドンは、このような、文明が決して人を幸福にはしないということを強く認識していて現代を生きるわれわれに警鐘を鳴らしているのだ、というのも一見穿った見方のようにも思える。しかし、わたしは、そんなふうには捉えられなかった。両作品を原作で読んでみたが、どこにもそのような社会風刺的描写はないのである。ただ、「荒野の呼び声」の中に、冬の北地になぜ、というような物見遊山の男二人、女一人の三人組が登場して、その知行不合一ぶりというか、理論ばかりで実践が伴わず、犬たちはもちろん自らも悲劇に見舞われてしまうシーンが出てくる。しかし、これにしても、風刺というよりは、野生のもつ峻厳さから見たときの文明のもつ弱さ、脆さを強調しただけのことであろう。

ジャックロンドンは、わたしが思うに自らが極北の地で体験したことを題材に二つの魅力あふれるフィクションを仕立て上げただけなのである。
もちろん、題材が題材であるだけに、その中には文明に対する批判が自ずと含まれてしまうであろう。

しかし、彼の目的がそこにあったとは思えない。自らがクロンダイク病に罹ってしまい、温暖なカリフォルニアから極北の地へ金鉱探しの旅へ出かけたのは若干21歳のときであり、おそらくこの時に見聞きしたであろう橇犬や狼のことが彼の中で消化され巧みに再構築されたのがこの二つの作品なのである。

とはいえ、彼が文明と野生を対比させてこれら二つの作品を書いたのには理由がある。ただ、これを文字通りの文明と野生という文脈で捉えてはいけないと思うのだ。彼が描く文明と野生はシンボライズされたテーマなのである。なぜなら、文明と野生は一個の人間の中に存在する本質的なものだからである。

冒頭わたしは、ジャックロンドンは実の父親を知らずに育ち、幼い頃から大変な苦労をしてきたことを述べた。牡蠣を盗んで生計を立て、政治活動もやり、あちこちをホーボーし留置場にも入れられた。その一方では刻苦勉励して、わずかな期間とはいうものの大学にも入った。
このような男に二律背反する感情や思想が生まれなかったはずがない、とわたしは断言する。この男の中には必ず原始が、野生の精神が培われていたに違いない、と。
つまり、ジャックロンドン自身がバックであり、また白い牙でもあったと思うのである。

 

参考までに、「立命館経済学第50巻第1号」より辻井榮滋氏の「J・ロンドンの極北もの短編群を読む」という論考から抜粋させていただく(これはネットで見つけたものである)。

時代は折しも19世紀末。アメリカでは、有名な1893年の恐慌(半年間に8,000の企業が倒産)をはじめとする波状的な不景気に見舞われていた。わがロンドンも、定職には就くことができず、半端仕事で食いつなぐ暮らしに甘んじていた。・・・・・・
 そんな頃汽船「エクセルシア」号がサンフランシスコに入港したのは、1897年7月14日のことであった。当時の狂気の様子をR・キングマンは次のように記している。

クロンダイクからもどって来たばかりのだらしのない身なりの男たちが、黄金の財宝を携えて上陸した。わずか数時間のうちに、合衆国をはじめ世界中がクロンダイクの金の発見のことを知った。数日のうちに、クロンダイク・ゴールドラッシュは狂気の沙汰となった。行ける者は、職をほうり出して北へ向かった。行けない者は、行ける者に対し発見した利益の分け前をもらうことを条件に金品を与えた。国を挙げての狂気の沙汰であった。考えも理由もなく、人々が何千人となく狂気――「クロンダイク病」といくつかの新聞が呼んだ――に駆られたのである。

同じようなパニックが、シアトルでも起こった。「エクセルシア」号入港からわずか三日後のことで、今度は汽船「ポートランド」号入港の報が入ったのである。あとはもう、黄金に憑かれた人々の、現地クロンダイクへの殺到しかなかった。経済不調に光明を見いだせない時代状況と、長年月にわたって育まれてきた人間の金への飽くなき渇望――一攫千金願望――とが、ここで一気に手を取りあう格好でのゴールド・ラッシュと相成ったのである。ニュースは、数時間のうちにアメリカやカナダその他を駆けめぐり、何千何万人ものゴールド・ハンターたちが極北の地を目指すこととなった。

若干21歳のロンドンも、例外ではなかった。大変な苦学の末にせっかく入ったカリフォルニア大学も、主に経済的な理由によりわずか1学期間で退学。その後、ベルモント・アカデミーのクリーニング屋に仕事の口を見つけたものの、いつしか「牛馬のごとく働いており、労働時間は馬よりも長く、考え事をしないことにかけてはほとんど馬同然」の生活(この時の苦闘は、傑作「マーティン・イーデン」にきわめてリアルに描きこまれている)を送っていた。上記の一大ニュースが入ったのは、クリーニング屋での地獄のような生活が6月で学院も夏休みに入り、その仕事を辞めて間もない頃のことであった。
 のちの職業作家としてのロンドンを考えれば、これまた多くのネタをたくわえさせてくれる期間であったことは間違いないが、いずれにせよまったく?の上がらない日々に甘んじていたロンドンがこの報に飛びついたのは言うまでもない。借金をして旅支度を整え、義姉イライザの夫シェパードとともに、1897年7月25日に汽船「ユーマティラ」号に乗りこんだ。R・キングマンの伝記(p.70,拙訳書p.125)を見れば、埠頭を埋め尽くした大群衆の熱気が伝わってきて、当時のいわゆる「クロンダイク病」なるものの理解の大きな一助となるだろう。
 さてここで、ロンドンが辿ったクロンダイク往復の旅程を、いくつかの資料をもとに整理しておきたい。

1897年7月25日 汽船「ユーマティラ」号でサンフランシスコ出発(290人乗りに471人が乗船)。途中ポート・タウンゼントで、「シティ・オブ・トピーカ」号に乗りかえる。

8.2.アラスカのジューノウ着。

8.5.ジューノウ発。

8.7.ダイエイ着。

8.14.シェパード、リウマチがひどく旅を断念、帰途に。

8.21.シープ・キャンプ着。雨でぬかるむ間道を踏破。

8.31.チルクート峠登頂。
     ハピイ・キャンプ→ロング・レイク
9.8. リンダーマン湖着。二艘の舟作り。「ユーコン・ベル」号およ    
     び「ベル・オブ・ユーコン」号と命名
9.21 リンダーマン湖発。

9.22.ベネット湖横断。
9.23.タギッシュ湖からマーシュ湖へ。
9.24.マーシュ湖からルイス川へ。
9.25.ボックス・キャニオン着。
9.26.ホワイト・ホース急流。
9.29.ル・バージュ湖着。
10.2.サーティ・マイル川に入る。
10.3.ビッグ・サモン川。
10.4.リトル・サモン川。
10.5.ファイブ・フィンガー急流(リトル・サモン川との分岐点)。
10.9.スチュアート川の河口のスプリット=アップ・アイランド着(  
     ドースンまで屋久80マイル)

10.16.ドースンに向け出発。
10.18.ドースン市着(ここでルイス&マーシャル・ボンド兄弟と出  
      会う)。同市に6週間滞在。

12.3.友人と共にドースンをあとにする。
12.7.スプリット=アップ・アイランド着。

1898 

1.27.山小屋でひと冬を過ごす。「ヘンダースン・クリークの小屋の、後方の壁の上の寝棚の上の丸太に「ジャック・ロンドン。鉱夫/作家、1898年1月27日」と記す。

5月 壊血病にやられる。
5月末か6月初め ドースン市へ。約3週間滞在。

6.8.他の2人とともにドースンを離れ、ユーコン川を1,700マイ  
    ル(3週間)の旅(この間、たびたび蚊の大群に悩まされる)。
6.11.ポーキュパイン川との合流点。
6.16.ヌーラートゥ着。
6.18.アラスカのアンヴィック着。壊血病、相当悪化。
6.19.ホウリー・クロス・ミッション着。
6.28.セント・マイクル着。

そうしてわずか5ドル足らずの金を手にしてオークランドに帰着したのは、7月末か8月初旬の頃のことであった。
 月日と場所および簡単な事実メモのみにとどめたが、一攫千金を夢見る何千何万人もの猛者連にまじって極北にまる1年をかけた若きロンドンの生きざまや彼の作品中の登場人物およびいくつかのキーワード等が垣間見えてくる。結果的に金そのものは持ち帰れなかったに等しかったものの、E・S・リサンドレーリーが言うように、まさに"Gold did not line his pockets, But golden ideas filled his mind."であった。事実このクロンダイク体験から、12冊の著書と50篇に及ぶ短篇が生みだされることになったわけだから。
 ところで、カナダやアメリカ本土からクロンダイク地方を目指すには、当時3通りのルートがあった。1つは、上に見たロンドンもとったポピュラーなコースである。難所が多く、多くの者が命を落としたり挫折を余儀なくされた。

・・・現在のジュノーの近くのスカグウェイというところには、たちまち港ができ、そこからチルクート峠(1,300メートル)を越えて、クロンダイクに歩いて行った黄金亡者の数はおよそ3万5千人、チルクート峠の断崖から墜落した人が約300人、荷物を背負ったまま墜死した馬が千数百頭あったという。

との記述も見られるほどである。もう1つは、ロンドンが復路に辿ったのとはちょうど逆の、ベーリング海側からユーコン川をさかのぼってドースンに至るコースである。そして3つめは、カイヴ湖→マッケンジー川→ポーキュパイン川→ユーコン川との合流点→ドースンと辿るコースだが、こちらはそれほどポピュラーではなかった。
 これら3つのコースと、そこに殺到した黄金亡者たち自身の生きざまは言うまでもなく、彼らから聞いた数々の話をメモに残し、それらのメモが彼の砂金や金塊となった。

 He met American Indians, Northwest Mounted Police, travelers from all over the world. He learned about gold mining, about traveling by dog-team, about the dreary Yukon winter, about the bitter cold, about brave men and women and animals, and about the "white silence"-- awesome spectacle of snow and ice from horizon to horizon.

と、D・ダイアーも記している。具体的にこれらのコースを作品に利用した例を2,3挙げると、第一のコースは「千ダース」("The One thousand Dozen," p.83,p.90,p.98)に詳しいし、第2のコースは極北の地にて」("In a Far Country,"pp.11-19)や、一部「生命にしがみついて」("Love of Life")にも描きこまれている。
 いずれにしても、ロンドンがこのクロンダイク体験から学びとったことの意義は、計り知れないほど大きかった。帰郷後もしばらくは半端仕事で食いつなぎ、すでに山小屋での冬ごもり中に決意表明していた通り、職業作家への苦難の道を歩みつづけ、その年の晩秋(11月)になってようやく原稿が採用されはじめた。「凍結を旅する者のために」("To The Man on Trail")や「千度もの死」(A thousand Deaths")などである。そして、1899年1月の「凍路を旅する者のために」を皮切りに、次々と短編が雑誌に掲載されていった。・・・・・・