Carolと提灯鮟鱇

2016/03/01 08:15


なんでこんな映画を見た、という人がいるかも知れない。Carolは、直截にいうならレズビアンを扱った映画である。
そして、わたしは男である。かつ同性愛者ではない。じゃぁ、なぜ見たんだ。最近、わたしは「愛」にはまっているから、である。「愛」のいろんな形を見たかった。

原作は、「太陽がいっぱい」の著者パトリシア・ハイスミス。原題は「the price of salt(これは、どうやら聖書ロト記からのものらしい)」で、1952年の作だそうだ。なんと、わたしよりずっと?年上ではないか。
主人公キャロル・エアードを演じるのはケイト・ブランシェット。その相手役、チェコ出身のデパートガールで写真家志望のテレーズ・ベリベットがルーニー・マーラーというひと。二人とも美しいのだが、特にブランシェットのノーブルな美しさは、現実にこのようなひとに会ってしまったら、まさにイチコロであろう、と思わせる。

くどいようだが、これはレズビアンの映画である。濃厚なベッドシーンもあるにはあるのだが、ただの一度きりである。だから、もしもレズのベッドシーンが見たいという極めて純粋な動機からこれを見ようとすると、特に野郎はがっかりするに違いない。

わたしが思うことは、先に雄の狼と人間の男との愛(友情というよりはまさに恋愛)について書いてみたように、愛には様々な形があっても、それはむしろ当たり前のことなのじゃないか、ということである。もちろん、原初の愛は、生殖、というよりも子孫の繁栄のためのものであったことは間違いない。しかし、それが進化の過程において、様々で複雑な形態のものに変わっていったとしてもなんら不思議ではない。
たとえば、犬の人に対する愛情にしても、これは間違いなく進化の過程で、犬が人間に依存して生きるようになって生じたものである。

このようなことを考えているうちに、わたしは小松左京さんの「アダムの裔」という短編を思い浮かべた。以前にも書いたことがあるが、これははるか未来において、男というものが「張型」そのものになってしまっている、というわたしのような男の端くれにとっても容易ならざる、いや深刻極まりない出来事について、氏一流のユーモアとペーソスを交えて描かれたものである。

端折っていうなら、この時代には、男は一本のバットと二個のボールだけの存在に成り下がってしまっているのである。
そんな莫迦な、と思う男ほど莫迦(失礼ながら)である。小松さんの明察通り、Y遺伝子の中身というのはスッカラカンなのである。ご存じのように、ミトコンドリアはすべて母系由来である。そして、このミトコンドリアというのはエネルギー産生の元になる非常に重要な細胞内器官である。仮にあなたが男であったとしても、そのミトコンドリアはあなたの母さんから、そしてあなたの母さんはそのまた母さんから・・・、と延々と、山口百恵の歌ではないが、蝋燭の火を次から次へとリレーしていくように引き継がれてきたのである。しかし、残念ながら、あなた自身は、そのミトコンドリアをあなたの子孫に伝えていくことはできない。甚だ残念なことではあるが。

さて、現実の社会?にも、小松さんが描いたような姿になり果ててしまった♂はいくらでも存在する。
例えば、深海に暮らす提灯鮟鱇などは、深海ゆえに、暗くてお互いパートナーを見つけることができない。では、彼らは、いや彼らと彼女らはどのように生殖するのか。
答は、まさに小松さんがその鋭い洞察力と先見性で予見された人類の未来にある。
提灯鮟鱇の雄は、自らの何倍も何十倍も大きな雌の一器官となって、まさにヒモ(pimp)のごとく、雌のおこぼれに与りながら、せっせ、せっせと只管生殖活動に奉仕する。なんとも羨ましいような、羨ましくないような只の生殖器官に、まさにアダムの裔に成り下がってしまっているのである。わたしはこれを「鮟鱇器官説」と命名しよう。

さて、Carolは確かに美しい良い映画ではあった。しかしわたしは、このような映画が世の女性たちを大いに鼓舞し、ますます少子高齢化に拍車をかけるような事態にだけはなってほしくないと思うのである。