今日の迷言:哲学者は311を救えなかったが、311は多くの哲学者を産み出した

2017/05/23 12:53


日本は言わずと知れた天災が突出して多い国である。311を未曽有の災害という人もいるだろうけれども、日本列島に人が住み始めて以来、あのくらいの地震はおそらく何度もあった。

311では、大地震に伴う津波によって2万人近い人が非業の死を遂げた。その家族の悲嘆たるや思いやるにも余りある。息子や娘、父親や母親、兄弟、姉妹、自分と血のつながる者の死ほど心に傷を負わせるものはない。

このようなときに、その傷を癒してくれるものなどない。ただ時間だけが少しずつ、その傷の痛みを忘れさせていってくれるのである。しかし、それも完全にではない。痛みは依然として残っており、傷の痕も決して消えることはない。

このようなときに、哲学が一体何の役に立つであろう。津波で肉親を失った人に哲学を説く者がいれば、そんな奴は殴ってやればよい。そんな輩は哲学者でさえないからである。

しかし、そのような試練?に泣きながら耐え抜き、飯を涙と共に喉に押し込んだ者には、知らずとも何がしかの哲学が生まれるであろう。そのような哲学こそ本物の哲学であろう、と思う。

哲学は実用的なものではない。それは既に述べた通りである。しかし、自身の内部に自然発生的に芽生えた哲学は、それこそ雑草のように強く確かなものである。

話を初めに戻すなら、わが国は自然災害の多い国柄である。その災害の多さゆえに、日本人には日本人の特性が生まれたのである。
もちろん、日本人の特性は天災によってのみ生じたのではない。日本列島の四季の美しさや生態系の豊饒さからも日本人特有の感性が生まれた。
そして、あの大災害の後に東北の人たちがとった行動は、まさに中外に施して悖らず、であった。他の国の人たちが感嘆するほど冷静で整然としたものであった。
わたしは、これを誇れと言っているのではない。あのような挙措動作は、これまで散々大災害に苦しめられてきた日本人のDNAでなければエピジェネテックスに組み込まれたものであろう、と思うのである。

わたしたちと日本列島とは不可分の関係にある。日本列島がわたしたち日本人を作ったのである。日本人特有の哲学、あるいは宗教がある(現に神道がそうである)とするなら、それは日本列島により涵養されたものなのである。