意志と心

 

2015/08/04 07:47

以前に意志というものについて駄文をものした。

意志とは、自由意志などというように人間が自律的に何かを実行、または決定することである。そこでわたしが問題としたのは、自由とか自律とか言うけれども、本当にそうなのだろうか、ということだった。

人間というものを一つの系として考えるならば、その系の行いや思想はまったく自由で自律的なものに見えるかも知れない。ところが、人間を一個のロボットと看做すなら、そのロボットは内部プログラムによって動いているのであり、外部からの刺激や情報は単に処理すべきデータに過ぎない。人間の場合にややこしいのは、果たしてそのようなプログラムが本当に仕組まれているのだろうか、という点である。

しかし、これは間違いなく仕組まれている。生まれたての赤ん坊を見れば分かる。オギャーと泣くのも、乳を求めるのも、あれは本能という名のプログラムなのである。そして、このプログラムは、実に精緻である。生存に必要な最低限の本能と、さらにより良く、・・・というより、より狡猾に生きようとするプログラムを備えている。「利己的な遺伝子」が組み込まれているのである。

人間も利己的なプログラムに支配されている。それゆえに様々な不幸が起きる。利己は往々にして別の利己と矛盾するから、そこに争いが生ずる。争いは時に大きな戦争にまで発展する。これは、人間というのは所詮猿から進化した動物に過ぎないということの証明である。すなわち、人間も利己的遺伝子の支配を強く受けているのである。

人間の本能も利己的遺伝子の影響を強く受けている。これは分かった。そうすると、人間の意志というものにもこれの影響はないだろうか。何か重大な決断をするとき、あるいは今日は少し頭痛がするから学校へ行くのを止めようか、それとも頑張って行こうか、と迷っているとき、行くか、休むかの二者択一はどのように決定されるか。それは、いろいろな要因に左右されるであろう。頭痛の程度。昨日好きな先生に怒られた。学校を休むと母親がひどく悲しむ。友達のA君と遊びたい。数学の成績が心配だ。今日は雨が降っている。・・・まぁ、国の将来に関わるような重大な決断でも、学校をサボろうかどうしようかという他愛のない小学生の決断でも、だいたいどちらが自分にとって都合が良いかの計算に帰すると思うのである。要は、意志というものの基礎にあるのは自己に有利になるように計算をして、自動的に行っているわけで、その余は何らかの偶然や錯誤によるものである。

鶏がミミズと団子虫のどちらを先に啄ばむかは、鶏の意志によるものである。しかし、その意志そのものは、雷の落ちようとする意志と同じことである。雷が大きな樹に落ちるか、それともゴルファーの振り上げたクラブに落ちるかはその瞬間の大気の状態などの複雑なパラメータによって決まる。鶏がミミズを選ぶか団子虫を選ぶかも脳内の様々なパラメータによって決まる。わたしが思う意志とはこういうものである。つまり、自然現象と同じで極めて偶然的な性質のものなのである。

では、心はどうだろう。意志が外部への何かの投射であるとするなら、心は何かの反映である。意志を太陽とするなら、心は月に喩えられる。心は受身であり、名優の涙にしても、あれは決して空涙ではない。あれは自らの心に自らの意志を作用させることによって流れているのである。

それでは心は、いや感情はどのようにして生じるのか。

わたしに言わせれば、感情とは味覚のようなものである。様々な外的な刺激が脳の味蕾にぴったり嵌ったために発生したものである。味蕾が甘い、辛い、苦い、酸っぱい、それに旨みなどを感じるように、様々な外敵刺激が喜怒哀楽を呼び起こす。

そしてその感情も、利己的なプログラムの上に乗っかったものであることは間違いない。感情は、自己に優位かどうかを正確に示す秤だからである