堕ちる男

2010/07/19 14:11


Wは、ごく小さなころから繰り返し同じ夢を体験してきた。夢は普通見るものだが、彼の場合、それは高いところから落ちる夢で、そのときの浮遊感というか無重力感は、体験としか他に言いようがない。

小学校3年生のころ、彼は自宅の枝ぶりのよい高い黒松に登って、子猫のように下に降りられなくなってしまったことがある。風が吹き、枝が大きく揺らいだ。その拍子に足を滑らせた。髪の毛が逆立ち、身体から重みが消えた。しかし、落ちたと思ったところは柔らかな布団の中だった。彼は、そのときの恐怖と、その裏返しである安堵感とを今でも手に取るように思い出すことができる。そして、その日の朝、作文コンクールで一等になり校長から表彰されたことも。

それからも何度も落ちる夢を見たが、そのたびに彼には幸運が訪れた。名門中学を受験して、その合格発表の日には3階建ての小学校の屋上から落ちる夢を見た。そして、親と一緒に行ったその中学校の合格掲示板に自分の受験番号を見つけた。見事に難関を突破したのだ。高校受験のときも大学受験のときも同じだった。

世間で超一流といわれる今の会社に入った時もそうだった。そのときの夢はいっそうリアルで恐ろしかった。

摩天楼の一角。超高層ビルの屋上に設置された電波塔。さらにその上に付いた避雷針に彼は抱きついている。そこからは、どこの都市かは分からぬがメタリックな大都会が日の光を浴びてきらきら輝いている。近くにこんもりと緑をおい茂らせた森もある。空の青を映した川を白いボートが上り下りしている様子も見える。雲の動きが壮大な都会のパノラマの中に影絵のように映し出される。蟻の行列のような車の流れ。ときおり、救急車やパトカーのサイレンも聞こえてくる。
彼は柔らかな浅春の太陽を見上げた。真っ青な空を太陽は自分の周囲だけ眩しい金色に染めている。

そのとき、Wは激しい揺れを感じた。腹まで揺るがすような地鳴りがして、大都会を支える地盤が波打つのが見えた。森の木々がさんざめき鴉の群れが叫び声を上げながら一斉に飛び立った。隣の高層ビルが彼の方に向かって軋み音を上げながらゆっくりと傾いてきた・・・かと思うと、いきなり窓ガラスが弾けたように割れて、きらきら日差しを浴びながら飛び散った。見ると、高層ビルというビルが海草のように揺れている。そして、どのビルからも虹を浮かべた真っ白な滝のようにガラスの破片が滑り落ち、周辺にダイヤモンドダストのような靄がかかった。

ビルの揺れは次第に大きくなり、ついに弾性限度を超えたビルから倒れはじめた。
彼のいるビルとて例外ではない。彼はメトロノームの針のように大きく振り回され、避雷針を握る手の握力がその遠心力についつい負けそうになる。そして、あっと思ったときにはすでに手は避雷針を離れていた。
これまでもたびたび体験してきて身に馴染んだ浮遊感。彼は、隣の低いビルの屋上へとゆっくり落下していった。
しかし、はっと安堵とともに目が覚めたときは、やはり布団の中だった。力いっぱい握りしめた両手には気味の悪いジェルのような汗をかいていた。

こうして入社してからも、彼は周囲が羨むほどとんとん拍子に出世した。そのたびに落ちる夢の恐怖を味わったが、吉事の予知夢だと思えば、一時の、しかも夢の中の恐怖などまったく苦にはならなかった。

今彼は、若くしてエクゼクティブオフィサーと呼ばれている。企業重役。いわば企業における参謀将校である。並みいるライバルたちを蹴落とし、彼はもうすぐトップの、CEOの座に就こうとしていた。

もう一度だけ、あの夢を見させてくれ、と彼は思った。心から願った。こんなことは生まれて初めてだった。
「もう一度だけでいいから、あの落ちる夢を見させてくれ」

そしてその夜。彼の夢は叶った。またしてもあの浮遊感が彼を襲った。今度は、道を歩いていていきなり口を開いたマンホールに落ちたのだ。彼は真っ黒な闇の中をくるくると舞いながら落ちていった。落ちながら、彼は至福を感じていた。
「素晴らしい! 落ちるとは何と自由で楽しいことか」

はっと目が覚めたとき、彼は何かいつもと違う様子に気がついた。いつも彼は布団で寝ている。二つ布団を並べて、妻の軽い寝息を聞きながら寝ている。だから、落ちる夢を見て、恐怖に目が覚めて、はぁはぁ荒い息をしながら満面の笑みを浮かべている姿を何度も彼女に見られてきた。
しかし、今回だけは違った。彼はベッドの中で目が覚めたのだ。
「あなた・・・」と妻がやつれた顔に微かな笑みを浮かべて彼に声をかけた。彼は、その妻の顔に違和感を抱いた。顔が変わったように感じたのである。しかし、その違和感はすぐに消し飛んだ。
「良かった。お気がつかれて」と若い看護師が心電図モニターに眼をやりながらつぶやくように言った。それから、彼の妻に向かって、
「もう大丈夫ですよ。峠は越えましたからね」とほほ笑んだ。
「俺はいったい・・・」
そう訊こうとして、彼はすべてを思い出した。

「しかし、いったいなぜあんな夢を・・・」とKは思った。
Kは、その日、自宅の屋根に登ってソーラーパネルを固定する架台の調整をしていた。ところが足を滑らせ10m下に墜落した。頭を打って救急車で病院に搬送された。そして3日間、生死の境を彷徨った。腰骨と足の骨も折ったが、そのお陰で脳へのダメージが少なくて済んだ。
「しかし、なぜ俺はWの夢など見続けたのだろう・・・」
Kが訝るのも無理はなかった。Wは小学校時代の同級生だったからである。そのWは、人生の皮肉というか、彼と同じ会社のトップにまで上りつめたが、Kはいつまで経ってもしがない平社員のままだった。

意識が戻って二日目、Kは病室で妻と二人蜜柑を食べながらテレビを見ていた。
それは民放のニュースだった。フラッシュが盛んに焚かれている。何事かと思ってベッドに横になったまま注視していたのだが、その男の顔が映し出されたとき、さっと顔から血の気が引いて行くのを感じた。それはつい2日前まで自分自身であったWだった。
Wは、不正経理を働き会社を信用不安に陥れた。内部告発を受け逮捕されたのだ。おそらく、熾烈な出世競争の末にライバルに嵌められたのであろう。

「そうか。俺は意識を失っている間、あいつの人生を追憶していたのに違いない。俺は、まさに邯鄲の夢枕というやつを体験したのだ。・・・しかし、夢であってくれて本当に良かった」
ギブス姿の彼の隣では、妻が何か楽しいことでも思い出したような嬉しそうな顔をして彼のために蜜柑の皮を剥いていた。