玉手箱の意味について

2016/03/31 09:48

これについては以前にも記したことがあるのだが、浦島太郎の玉手箱にしても、パンドラの箱にしても、あるいは鶴の恩返しの話にしても、なぜこうも昔話というのは人間の本性に反した、というよりも意図的に反することを書きたがるのだろう。と、わたしは常々考えていた。ところが最近、実はこれはそういう話ではないのではないのか、と思うようになった。

わたしは、青春時代のおよそ12年間をN市で過ごした。そこでは大いに仕事をし、スポーツをやり女性を好きになった。何人かの女性を好きになりはしたが、そのすべてに好きになられたわけではない。つまり、大抵は振られた、のである。わたしの春もやはり、大抵の春と同じで実を結ぶ季節ではなかった、ということになる。

そして、あれから○十年経つというのに、あのときの失恋の痛みが疼くことがある。あのときのことは、今でもしっかり傷痕としてわたしの心に刻まれているのである。
しかもそれは、スカーフェースのように誇れるような傷ではない。向う傷のように勇ましいものではなく、臆病者の後ろ傷のように、今となっては後悔と屈辱を伴って疼くのだ。

だが、痛いばかりが傷ではない。感傷とはよく言ったもので、青春の甘酸っぱさも残してくれた。人間の記憶は、痛みよりは甘酸っぱさの方が長く強く残るようにできているのだ。
いずれにしろ、わたしにとってN市は、浦島にとっての竜宮城であった。鯛やヒラメが舞い踊るほどおめでたかったわけではないが、わたしにとって青春を送った町であったことは間違いない。
いま、わたしは青春も朱夏も通り過ぎ、白秋の真っただ中にいるわけであるが、やはり何とも麗しく想い偲ばれるのはあの竜宮城での月日なのである。

さて、玉手箱の話をするとしよう。浦島太郎は、決して開けてはいけません、と乙姫様から言われて玉手箱を頂いた、ということになっている。だが、どこの世界にこんなことを言って贈り物をする者がいるだろう、というのがわたしの当初の見解であった。ところが、ようやく今頃になって、玉手箱を開けてしまってから、これの本当の意味が理解できるようになったというわけなのである。

つまり、乙姫様は、あなたが本当に大事にしなければいけないのは、今という瞬間であって、過去の思い出に浸っている時間はありませんよ、ということを真の贈り物として浦島に与えたのだ、ということが分かったのだ。
そういう風にとらえるなら、この話はとても御伽話とは思えないほどによくできた、哲学的示唆に富む物語である。しかも、それを直接に指摘するのではなく、わたしのような凡百にもなんとなく、ぼんやりとではあるが真の意味が分かるように拵えてある。

ああ、浦島伝説恐るべし、である。