化天は夢か

2010/08/08 00:35

Oは、たびたび見る夢に悩まされていた。それは死んでは生まれ変わるという奇妙な夢だった。

かの孟子は、あるとき蝶になった夢を見た。そして、その夢から覚めたとき、蝶が自分になった夢を見ているのではないかと思ったという。

Oの見る夢もそれに似ていた。いや、それ以上に不思議で恐ろしい、とてもこの世のこととは思えぬ夢だった。彼は、醒めては眠り眠ってはまた醒めるということを繰り返している。その醒めたときが実は夢で、眠りとはすなわち死であった。

そして今日も、これまで聴いたこともない妙なる音楽と共に目が覚めた。と思ったのだが、それはやはり夢だった。しかしそれは、とても夢とは思えぬほど現実感に溢れていた。

音楽は天上の調べのように美しく鳴り響いていたが、それは枕頭に置かれた時計が発しているのだった。時計とは言ったが、そんな時計を目にするのは初めてのことだった。実に精巧で美しく、見たこともない12の文字が並んでいる。それに針が三つもあった。彼は、ぼんやりとした頭で、自分の右手が自動的に時計の頭についた凸を押すのを見た。すると、音楽が鳴り止んだ。

次に彼は、自らの意思によってではなく、自分の身体がこれもまた初めて経験する木の床から2尺ほども高くなった寝台でむっくりと起き上がるのを見た。

肌に着けているものも奇妙だった。それは進取の気概に富む彼の好奇心をいやがうえにも掻き立てた。それに実に通風がよく快適なことこの上ない。これまで、Oが寝るときに身に着けていたものといえば、真っ白な下帯、すなわち褌一つであり、冬にはこれに正絹の長襦袢を加えるだけであった。

彼はいま、二股になったごくごく短い朱色の袴のようなものを履いている。その鮮やかな朱や至極快適な意匠には強く心を捉われたのだが、その意に反して目はすぐに他のものへと移ろうた。

彼の五感は、これが夢ではなく現実のものであることを告げている。しかし、自らの意思がまったく身体に伝わらない。やはりこれもまた夢なのであろうか。彼の意思と肉体は奇妙な乖離現象を起していた。

「わしは金縛りにあっているのだ。・・・いや、何か悪霊のようなものに夢を見せられているのに違いない」

そう思って彼は、念仏を唱えた。念仏などかつては一度も口にしたことなどなかった。しかし、たびたびこのような恐ろしい夢を見るようになってからは、もはや仏の慈悲に縋るよりはないと考えるようになったのだ。それでも、やはりいつもの通り口は開かず声帯は振るえなかった。念力で蝋燭の火を消そうとするような努力。これが夢でなければ、ふっと息を吐くだけで蝋燭の火などすぐに消えてしまうであろう。しかし、その息を吐くという簡単なことさえ出来ないのだ。

彼は、もう何度もこの種の夢を見ていた。恐ろしい夢には違いなかったが、何となく夢の正体に気が付いてもいた。それは、己の魂が誰か他人の身体の中に一時的に住まうようになったということであった。
「そう考えねば、このように不条理なことが起こり得るはずがない。わしの魂は、今この見知らぬ男の身体の中にいて、このまったく下らぬ一文の価値もないとさえ思える下衆の挙措、一挙手一投足を仔細に観察している。こやつの精神はまったく下らないの一言だが、その生活についてだけはまさに瞠目に値する」

今も、男は赤い下着一つの姿のまま、扉を開いて憚りに入った。Oは、他人の憚りにつき合わされるなどという尾篭は真っ平御免蒙りたかったが、これは心の目を瞑り鼻を摘まむしかなかった。しかし、この男、大小便を一時に終えると、鼻歌を歌いながら、腰掛式の座に付いた丸いボタンを押した。その瞬間、彼は思わず叫び声を上げた。もちろん声にはならなかったが、その衝撃は彼の人生観を左右するほど大きかった。尻の穴に、つまり肛門に勢い良く温水が噴射されたのである。

Oの驚きも覚めやらぬうちに、男は大きな鏡の前で一日の始まりの儀式を始めた。Oは、鏡に映った若い男のだらしのない呆けたような顔に鳥肌が立つ思いだった。髪は金色に染められ、耳朶には穴が開き銀色の環が下がっている。
「わしは、かつてこのような阿呆な顔は見たことがない。わしも若い頃にはおおうつけと罵られたものだが、このような軽薄者ではなかった。もしもこのようなうつけがわしの家来などであったなら、即刻首を叩き切ったであろう」

そんなOの気持ちなど知る由もなく、男は右手におかしな、ぶるぶると小刻みに振動する機械を持って髭を剃りはじめた。Oには、すぐにはその原理が飲み込めなかったが、頬から顎にかけて鬱蒼と茂っていた雑草のような髭がみるみる刈り取られていくのを見るのは新鮮な驚きであった。
髭を剃り、顔を洗い、しきりに鏡の前で顔の様子を気にした後、男はようやく食卓に向かった。この男はやはり独り者のようであった。
「このような腑抜けた男であってみれば、女子に縁がないのも首肯せざるを得ない。宣なるかなである」
男に、彼の心の声が聞こえるはずがない。男は、袋から食パンを2枚取り出し、それを焼くための小さなトースターと称する装置に入れた。それから男は薄緑色をした大きな箪笥のような機械の観音開きになった扉を開けた。その瞬間、Oは冷気が裸の胸から腹にかけてすーっと降りていくのを感じた。
男は、扉の内側に付いた小さな物入れから四角い紙で出来た容器を取り出すと、中身をガラスの器に注いだ。真っ白な液体。Oには、その臭いからすぐにそれが乳であることが分かった。
「何とこの者は獣の乳などを食用にしているのか」
男は、コップに一杯牛乳を注ぐと、腰に左手を当て、ぐっと一息に飲んだ。Oは、額に鈍い痛みを覚えた。しかし、同時にこれまで味わったことのない旨さをも感じた。
「ひぃー」と男が満足の呻き声を上げたが、それはO自身の声でもあった。
「冷たい乳とは、斯くも美味なるものであったか」
しばらくして、チンという機械的な音がして、見ると先ほどのパンが狐色に焼けて装置から頭を出していた。
男はそれを皿に移すと、先ほどの冷蔵機械からビンに入った橙色と葡萄色をした食品を取り出した。牛乳をもう一杯コップに注ぐと、それらをすべて小さな銀色の盆に載せ、食卓に運んだ。

Oはもう、先ほどの冷たい牛乳に刺激された食欲が、狐色に焼けたパンの放つ香ばしい匂いにさらに掻き立てられるのを抑えることができなかった。
男は、鼻歌を絶やさないまま椅子に腰を降ろすと、こんがり焼けたパンにジャムを塗り始めた。オレンジマーマレードを塗り、さらにブルーベリージャムを塗る。男は、その儀式に満足すると、かりっと音を立ててパンの角を一口齧った。
「う、うまい」Oは感嘆の声を上げた。「このような美味なるものを、このうつけは毎日のように食しておるのか。この、頼りない腑抜けのような男が。しからば、この国はいったい・・・」
Oは、前回に見た夢のことを思い浮かべたのだ。

男は、パンを齧りながら、食卓に置いた黒い硯のようなものに手を触れた。すると、壁に掛けられたガラス製の大きな四角い板に映像が現れた。人の顔が映り、その喋る声までが聞こえてきた。
「なんという不思議な・・・」とOは、もうすっかり魔術にかけられたようになってしまっていた。

「・・・8月15日、朝7時の○○ニュースをお送りします。本日は、戦争が終わってXX年目となります終戦記念日です。今日もあの終戦の日と同じく全国的に青空に覆われ、猛暑の一日となりそうです・・・」

そのとき、Oの中で前回見た夢と今回の夢が一つにつながった。
「おそらく、前回わしの見た夢は、今から少しばかり時代を遡っていたのであろう。しからば、やはりこの国は、あの戦争に負けてしまったのだ」
Oは、俄かに食欲が失せていくのを感じた。「さすれば、あの益荒男の果たしたことは結局は報われなかったのであろうか」

Oは悲嘆を禁じえなかった。彼は前回と今回、二つの夢を比べてみた。
「前の夢でわしが住もうた男、あれは実に天晴れなわが息子にしたいほどの益荒男であった」

Oは、今自らの魂が宿っている男の内面をしかと見つめた。「果たして、この者にあの男と比べてみるだけの価値などあろうか。あの男は、死出の旅に立つ前、両親宛てに今生の別れの手紙を認めると、後は静かに畳に寝そべり書物を読んでおった。しかも、それはプロシアの言葉で書かれたこの世の真理を問う深い内容のものであった。わしは、あのとき、恥ずかしくも落涙を禁じえなかった。このわしが死ににいくわけではない。しかし、そのわしでさえ、このような必死の出撃を想像するだけで、出陣のとき以上に身震いがするというのに、あの二十歳を僅かに過ぎたばかりの男は、静かに本などを繙いているのだ。わしは、その覚悟のほどと生まれついての胆力に驚嘆するばかりであった。まさにあの男は端倪すべからざる益荒男中の益荒男であった。

思えば、あの男の周りは立派な書物で占められていた。それがきちんと整理され、それぞれに受取人の名が書かれていた。それは、兄であったり、親しい友であったり、師であったりした。 
わしは、この男の深い覚悟に心を打たれ、この者こそ真の武士の名に相応しいと感銘を受けた。

それに比べ、どうだ。この浅ましい男の所業は。こやつは、食うことと飲むことと女と金のことしか考えておらぬ。こやつは、これから出勤などと称して、人を騙すに等しい金貸し業に精を出すらしい。
男は、しょっちゅう小さな機械を取り出しては手の中で弄んでいる。開いたり閉じたり、・・・やがて軽快なごく短い音楽と共に小さな画面に文字が現れた。Oにはその文字が分からない。理解できない。
男はにんまりと薄気味の悪い笑みを浮かべると、ようやく身支度を始めた。鏡のついた箪笥から一通り着るものを取り出し、身に付ける。馬子にも衣装の言いの通り、少しはまともに見えなくもない。

「しかし、やはりあの益荒男と比べると・・・」
Oは、どうしてもあの凛々しい丸刈りの青年と比べてしまう。

・・・あのとき青年は、恩賜の酒が注がれた杯を空け、上官、そして整備員に敬礼を送ると、颯爽と空飛ぶ機械に搭乗した。いや、あのとき、このわしも一緒だった。わしは、機に乗り込んだ後、青年の睫が美しい涙に濡れるのを見た。しかし、それもほんの須臾の間。青年は誰にも知られぬよう、革手袋をはめた拳でそれを拭うとまた勇ましい益荒男の姿に戻った。

機体はぶるぶると振るえ、それは恰も零戦と呼ばれるこの戦闘機自身が武者震いをしているかのようであった。
青年は、開いた天蓋から再び敬礼をすると静かにスロットルを開いた。エンジンが咆哮を上げ、機体が一瞬左に傾いだ。車輪止めに付けられた紐を整備兵が引いて外した。青年は、尾輪ロックを外し、さらにスロットルを開く。零戦は、綱を外された猛犬のようにぐんぐんと速度を上げ土煙を蹴立てて滑走路を走り出す。僚機らも一斉に横並びで走り出した。そうして、速度計が120を示したとき爆装を施した重い機体はようやくふんわりと宙に浮いた。濃い群青の海が眼前に広がった。機はどんどんと高度を上げていく。白波がだんだんと小さくなってゆく。暁の空には早くも大きな入道雲が姿を現していた。

Oは、やがてこの特攻隊と呼ばれる必死の部隊が敵機動部隊を発見し、打電とともに次々と突入していくのをつぶさに見た。Oの魂が住まう青年も最後の雄叫びを上げ、敵艦へと突っ込んでいった。

「ととさま、かかさま、どうぞおたっしゃで。さようなら~」それが青年の最後の叫びだった。

それから、Oは長い眠りについた。そして、あの天上の音楽と共に目覚めたのだ。

いま、腑抜けは小さなカバンを持ち、マンションと呼ばれる建物を昇降機で地下まで降りて、真っ赤な自動車と呼ばれる高速移動機械に乗った。

Oには、もうこの時点で、この腑抜けの運命が分かっていた。
「わしは再び入眠するのであろう。しかし、それも良い。このようなたわけと同床異夢などまっぴら御免蒙りたい」

男はアクセルを全開で車路を駆け上がっていった。Oは、前世で青年と運命を共にした機体のことを思った。あの零戦に積まれていた発動機の出力は、せいぜいこの赤い車の倍ほどでしかなかったであろう。国を守らんための戦闘機の出力に匹敵するほどの発動機がこの赤い移動機械には積まれている。それをこんなたわけの口先八丁の人騙しが操縦する。なんという時代の皮肉であることか。

あの時代には、発動機を動かす燃料油は血の一滴とも言われるほど貴重なものであった。しかし、このたわけは壱里と離れぬ勤め先に通うためにわが身の何十倍も重量のある機械を動かしている。

男の車は、やがて市街地に出た。男はタバコをくわえ、上機嫌であった。そのとき、例のけいたいという機械が音楽を奏でた。粗忽な男はそれを取ろうとして足元に落としてしまった。しかも、このたわけは車を走らせたまま頭を下げてそれを拾おうとした。前から巨大な大型移動機械が迫っていた。男はそれにも構わずけいたいを拾おうとして、さらにバカなことには誤って加速装置の踏み板を思い切り踏み込んでしまった。男は慌てふためき、さらに舵輪の操作を誤った。真っ赤な高級移動機械は大型機械に向かって、前世であの天晴れな青年が成し遂げることの出来なかった願いを成就させるかのように突っ込んでいった。

Oは再び眠り、また再び目覚めた。いや、それは本当の目覚めであったのだろうか。

彼はいま、舞を舞っていた。豪華絢爛な薪能である。

思えばこの世は常の住家にあらず 草葉に置く白露 水に宿る月よりなお妖し
金谷に花を詠じ 栄花は先立って無常の風に誘わるる
南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立って有為の雲に隠れり
人間五十年 化天のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり
一度生を享け 滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思い定めざらんは 口惜しかりき次第ぞ

織田信長は、赫奕たる篝火の中いま面を顔にあてがい敦盛を舞いながら、果たしてこれは本当に現実のことであろうかと訝っていた。
「ひょっとすると、あの武士かたわけのいずれかがこのわしの、・・・信長という男の夢を見ているのではあるまいか」