人生の舞台裏について

2010/08/09 21:52


以前から疑問に思っていたことがある。鶴の恩返しにしても、浦島太郎にしても、またパンドラの匣にしても、どうしてこうも昔話には人間の本性である好奇心を諌めるような教訓めいたものが多いのだろう。

自分の愛しい女が襖の向こうで何をしているのか、これは見るなと言われれば余計に見たくなるのが人情というか男心であろう。
また、浦島は乙姫様から玉手箱をもらったというが、「決して開けてはならぬ」と言ってひとに贈り物を渡すというのはいったいどういう料簡であろうか。
パンドラの匣にしてもおかしな話だ。この匣にはこの世のありとあらゆる悪が詰め込まれていたのだという。その蓋を、止せばいいのにある男が開けてしまった。そのために、こんな世の中が出来上がってしまったというのは、話としては面白いには面白い。しかし、慌てて蓋を閉めたまでは良しとしても、なぜこの男は最後に残った一番の悪にまんまと騙されて再び蓋を開けてしまったのだろうか。しかも、その最後に匣から飛び出した悪の名が「希望」だったというのは余りに出来すぎではないか。なぜなら、これほど悪に満たされてしまった世の中で、人類はひたすらあてにはならぬ希望を頼りに生きねばならぬという、これまた教訓のような気がするからだ。

ところで、この世には、わたしたち一般人が決して覗いてはいけない世界が存在する。と言っても、それはトワイライトゾーンのような、そんなSFやホラー小説の洒落た世界ではない。

もうずいぶん昔のことだが、溝口敦氏の「荒ぶる獅子」というのを読んだことがある。広域暴力団山口組第四代目組長を務めた竹中正久氏の生涯を描いたものである。
これは、いわゆる日本の裏社会を描いたドキュメンタリーである。これを書くに当たって、溝口氏は直に竹中氏と会見し取材を行っている。いや、そうでなければ、とてもこのような実録物は出版など出来なかったであろう。
わたしは、これを読んで、竹中氏という人物の頭脳明晰さに感銘を受けた。
よく憶えているのは、溝口氏が「あなたの生き様を聞かせてほしい」というようなことを訊ねたときに、
「俺は男として死にたいよ。男の中の男として死にたい」と答えた行である。この「男」というのは、おそらく侠客の意味であろうと思うが、その言葉の通り、竹中氏は敵対するやくざの待ち伏せに遭い、何発もの銃弾を浴び壮絶な死を遂げた。

話を戻すと、文中溝口氏は、自分は生き様を教えてくれと訊ねたはずなのに、死に様で答えるとは・・・と訝っておられるのだが、わたしは、これは溝口氏の方が間違っていると感じた。なぜなら、生き様などという言葉は本来あってはならぬ言葉だからである。様を見ろと相手を罵るように、「様」とは、醜い姿のことをいう。したがって、やくざには、死に様を語ることこそ相応しい。
わたしは、やくざなどという屑に与する気は毛頭ないが、それでもやはり、生き様を問われて死に様で応えた竹中氏の己の分を弁えた器量というものに軍配を上げたい。

さて、わたしたちは上のような裏社会とは一見無縁ないわゆる表の社会で生活をしている。これは、わたしが思うに、法というカーテンで仕切られたこちら側の社会のことである。しかし、わたしたちは、カーテンの向こう側の世界を見ようと思えばいつでも覗いて見ることができる。また思い切って向こう側の住人になろうと思えばなることもできる。二つの世界を仕切っているのは、たかが法という薄っぺらなカーテン一枚だからである。しかし、その薄っぺらなカーテン一枚を開けて、向こう側の世界に行くには相当な覚悟が必要であることは言うまでもない。

ここまで書いてきて突然だが、こんなジョークを思い出した。

ある日、男が心臓麻痺で天に召された。そこはまさに天国だった。男は神様に招待され、酒池肉林のいい思いを味わった。
ところがである。なんと、男は生き返ってしまったのだ。
男は生き返って、ふたたび不摂生で自堕落な生活を送ることになった。しかし、しばらくして、そんな生活の報いからか再び心臓発作を起こして死んでしまった。男は再び天国に召された。彼は大喜びだった。
しかし、今度は前回とは大違いで、天国とは名ばかりのまるで地獄のような試練が待っていた。男は神に訊ねた。
「神様、これはいったいどういうことでございましょうか。なぜ、わたしはこの度はこんな仕打ちを受けなくてはならないのでしょうか」
すると、神様が答えた。
「ふーむ。記録によると、前回そなたは観光ビザでここに来ておるようじゃな。しかし、今回は永住ビザだからじゃよ」

上は、何事にも表と裏があるということを言いたくて書いてみた。

わたしは、わたしたち一般人というのはただ舞台の表、つまり観客席に座っていれば良いのだと思う。決して、旺盛な好奇心を発揮して、舞台裏など見ない方が良い。
オペラにしろバレエにしろ、どのような悲惨でおぞましい劇が演じられていようと、それは劇というに過ぎないが、その舞台裏の魑魅魍魎が蠢く世界は、わたしたちの感性がとても耐えられるものではないからだ。

やはり、鶴を助けた男は襖を開けるべきではなかったし、浦島は玉手箱を開けるべきではなかった。ましてや、パンドラの匣を開けるなどもっての外のことだった、と思う。