失われた顔

2010/09/08 22:51


グレゴリー・ザムザじゃないが、Wは、ある日曜の朝目が覚めて洗面台の鏡を見たとき、ショックで激しい眩暈を起こした。自分の顔が他人に変わってしまっていたのである。

眩暈はすぐに治まったが、ショックは止まなかった。心臓が激しく動悸を打ち、冷や汗が全身を伝って落ちた。アドレナリンが血中にどくどくと注がれていた。

「俺は狂ってしまったのか・・・?」Wは鏡を見たまま漠然とそう思った。「俺の頭はおかしくなってしまったに違いない」
それが最も妥当な解釈に思えた。今、鏡に映っている顔は、見たこともない他人の顔だったのである。
目やにの溜まった、ひどく怯えた目をした顔を洗う気にもならず、ぼさぼさの髪を手櫛で梳く気にもなれなかった。彼は、ただ呆然と鏡を前に立ちつくしているだけだった。

「鏡がおかしいのだろうか・・・?」Wは、ふとそう思った。部屋に引き返し、急いで洋服箪笥の扉を開く。一縷の望みをかけて、その鏡に映った自分の顔を確認した。改めてショックが襲った。やはり、映っていたのは見知らぬ他人の顔であった。

・・・そこで何分間、呆然と自分の顔を眺めていたのだろう。Wの中では時間が止まってしまっていた。
そのとき、遠くで、一歳半になったばかりの息子がお気に入りの赤いレーシングカーで一人遊びしている声が聞こえてきた。それが彼を現実に引き戻した。
「俺の息子はいつも目覚めが早い」Wは、緊急事態にもかかわらず、そんな暢気なことを思った。
そう言えば、味噌汁の匂いと、妻の朝餉の支度に忙しそうな音も耳に飛び込んできた。
「・・・なた~、起きてるんでしょ。朝ごはんできたから、早くいらっしゃい」
妻のその声に、Wはひどく狼狽した。食欲などまったくなかったが、食卓に向かわないわけにはいかない。Wは、恐る恐る一人で上機嫌に遊んでいる息子の方に歩み寄った。
「こうちゃん」
彼は息子の名を呼んだ。
「あ、パパ。おはよ」息子の康太が顔を上げてWを見た。Wは、その息子の顔を見て、心臓が止まりそうなほどのショックを受けた。
「こ、これは・・・、いったい、誰なんだ。この子はいったい誰の子供なんだ」
「ぱぱ・・・」と、その見知らぬ子供は、唇を戦慄かせはじめた。
「これは、まずい」と彼は思った。「このままでは、俺は狂人になってしまう」
凄まじいショックに倒れてしまいそうになりながらも、彼にはまだ分別が残っていた。
彼は、息子を抱き上げた。最初、息子は手を広げて、彼の抱擁を受け入れようとしたが、すぐに違和を感じたのか、顔を真っ赤にして激しく泣き始めた。

「息子は、俺の顔を見て泣いているのではない」彼は、まるで他人の子供としか思えぬ息子を胸に抱いてあやしながらも、冷静に状況を分析していた。「この子は、俺の心の動揺が以心伝心して泣いているのだ」
「まぁ、こうちゃん。どうしたの?」と妻が、食卓に朝食を運びながら、息子の様子を見咎めた。
Wは、その妻の顔を見てさらに大きな衝撃を受けた。その女は、大変な美人ではあったが、彼が一度も見たことのない女だったのだ。
妻もWの不自然な顔の表情にびっくりした様だった。
「あなた!」と叫び声を上げた。「いったい、どうなさったの。顔色が真っ青よ」
Wは、慌てた。しかし、慌てながらも、妻が決して自分の顔が変わったことに驚いているわけではないことを理解していた。
「いや、風邪でも引いたかな。ちょっと頭痛がするだけだ。なーに、外に出て風にでも当たればすぐに直るよ。ちょっと出かけてくる」

彼はいたたまれず、泣き止まぬ息子をソファにそっと座らせると、ジョギングウェアーを着て玄関を飛び出した。

異変は彼の身の上だけに起きているのではなかった。
町中の至るところに、彼と同じような男達があふれていた。いや彼などましな方で、大きな奇声を上げている者や、卒倒している者、げろを吐く者、お祈りを唱える者と町中がパニックに陥っていた。

Wは、余りの異様さに自分自身も叫び声を上げそうな気持ちになるのを必死で抑えながら、不思議なことに気がついた。パニックに陥っているのは、みな男たちばかりだったのだ。それも成人した男ばかりが、一種の集団ヒステリーのような振る舞いをしている。その男達の異様な様子を横目に女達は身を縮めるようにして小走りに駆けて行く。

Wは、近くを通った大人しそうな男に声をかけてみた。
「ひょっとすると、あなたも自分の顔を失くしてしまったんですか」
「えっ」と、男は立ち止まって彼の顔を見た。
「すると、あなたも・・・」
「やはり、そうだったか」と彼は思った。「いったい、何がどうなってしまったんだ」

それから、数日が過ぎた。Wはずっと家には戻らなかった。戻る気にはなれなかったのだ。自分の心を偽ることなどできなかった。まったくの赤の他人と、いや他人としか思えぬ家族と一緒に生活することなど、よほどの詐欺師でもなければ出来るはずがない。
Wがふと周りを見ると、いつの間にか彼と同じような路上生活者で溢れかえっていた。今や、日本中の地位も金もあった男達がみなホームレスに成り下がってしまっており、もともとのホームレスとほとんど見分けがつかなかった。

いったい、この国はどうなってしまうのか・・・。総理大臣や議員たちも官僚や会社経営者達も、誰もがそう思い、もともとホームレスだった男達以外の誰もがそう囁きあうようになった。

そんなある日。まるで、Wにとってはデジャ・ブのような光景が出現した。それは、Wが以前から危機感と共に抱いていた光景そのものだった。大勢の、日本人とはまったく違う厳しい顔つきの男達が町中に増えだしたと思うと、そいつらはあっと言う間に日本を席巻してしまったのだ。
そして、大臣だった男たちも、官僚たちも、自衛官や警察官たちも、まるで鳩のように扱われた。――パンを投げつけられ、ときには足蹴にされた。
Wは、ときどきその男達が面白そうに、こう言って自分達を罵しるのを聞いた。

「いったい、おまえたちには面目を潰すという言葉はなかったのか。おまえたちに体面を保つという言葉はなかったのか。
まぁ、もっとも、おまえたちが日本男児としての矜持をまったく失ってくれたおかげで、俺達はこうしてこの国を好きなように出来ることになったんだがな」