立体視について

2010/09/28 20:34


いささか旧い話になるが、わたしはアバターを3Dではなく2Dで見た。この作品は3D時代の幕開けを告げるものであっただけにつくづくも悔しい。
映像はモノクロ無声の時代からからトーキーへ、そしてカラーへと進み、今や3Dが当たり前の時代へと移ろうとしている。

ところで、人間には左右に眼があり、ものの奥行きが分かるように出来ている。これは左右に耳があり音源の方向を探知できるのと同じことである。
さて、今わたしにはひとつの立体映像が頭に浮かんでいる。と言っても、アバターのような天然色の美しいそれではない。
それは、たくさんの矢印がてんでばらばらに宙を彷徨っている極めて無機質なイメージである。
なぜ、このようなものを思い浮かべたかというと、最近、わたしは夙に人の個性や考え方の違いということについて考えることが多いからである。

たとえば、わたしは保守的な志向性をかなり強く持っていると自身では認識している。ところが、この保守という言葉は極めて曖昧で抽象的でさえある。さらに政治的な保守もあれば、単にファッションや食事の好みのことを言っている場合もある。したがって、茶髪をチックでツンツンに尖らせ、耳にダイヤモンドのピアスをした、サイケデリックで一見あんちゃん風の男が政治的には超保守で、水戸学に通じ、三島をこよなく愛し、また今回の尖閣諸島の問題では中国大使館に抗議のデモをしようと計画している、なんてことも現実になくはないと思うのである。

さてここで、先ほどの矢印のイメージに戻るのだが、これは透明な立方体の箱の中に無数の矢印が浮いていると思ってもらうと良い。この矢印は、ある方向から見ると、つまり立方体のある一面から見ると、てんでその向きがバラバラなのだが、別の面から見ると、あら不思議、すべての矢印が同じ方を向いている、というようなこともあり得るんじゃないかと考えたのである。

いったいわたしは何を言おうとしているのか? さきほどの保守という言葉を、その意味で考えるのではなく、指向性として考えた場合、日心会のメンバーの中にも様々な職業や年齢やバックボーンやその他多くの人生経験や境遇の違いからくる矢印の向きの違いが生じても不思議ではない。
大小様々の矢印が右を向いたり左を向いたり、あるいは上向きだったり下を向いていたり、まったくベクトルが揃っていないように見えることもあるのではないか。しかしこれは、いわゆる一面的な見方である。奥行きのあるものを単に上っ面だけで捉えたベクトルの、つまり矢印の大きさと向きの違いでしかない。

わたしは以前、日本の道路は右カーブと左カーブではどちらが多いかというひっかけ問題を出したことがある。これは、右カーブは反対から見れば左カーブであるから、その数は同じである。上り坂の数だけ下り坂があるのと同じことである。この考え方でいけば、人の短所は逆から見れば長所に通ずるから、結局人というのは長所も短所も同じだけ持っているということであり、無暗に卑下する必要もなければ驕ることもない、と偉そうなことを言ってみたかったのである。

今回は、次元を一つ上げて3Dで考えてみた。すると、一つ明らかになったことがある。それは、わたしたち保守の中での諍いや論争というのは、結局ある一面からしかお互いのベクトルを見ていないからだということである。
「なんだ、こいつは! 俺と方向が全く逆じゃないか。こんな奴がよくこの保守の会に入って大きな顔をしていられるな」と仮にAがBのことを思ったとしよう。ところが、別の面からこの二人のベクトルを見てみると、AのベクトルもBのベクトルも明らかに右を向いている。しかも、Bのベクトルの方がAよりもずっと長さが長い、なんてことも起こり得るのではないか。

要は、わたしは人間というものはやはり立体的に見なければいけないのではないかと思うのである。サイケデリックなあんちゃんは極端な例だが、例えその人のファッションセンスがリベラルで、前の戦争をあれは間違いであったと否定しようとも、それはある一面の投影に過ぎない。別の面から見るなら、皇室を敬いその弥栄を心から願い、この国の美しい山河や四方の海を、文化と伝統を、そしてこの国に住む人々をこよなく愛する人間であるかも知れないではないか。

人は誰しも奥行きを持っているのだ、とわたしはまたしても偉そうなことを考えてしまうのである。