布教について

2010/08/17 21:20


モルモン教(LDS:末日聖徒キリスト教会)について、先日少しばかり触れた。わたしは、この教会に無料英会話教室があるというだけの理由でかなりの回数通いつめた。

モルモン教というのは、少しばかり変わった宗教だと思う。実は、この宗教発祥の地はアメリカである。ジョゼフ・スミスという男が宗祖で、彼は、1830年に古代ネィティブアメリカンであるモルモンという人物が書き残した民族の言い伝え(金板に書かれていた)を発見し、これを翻訳したとされ、これ(モルモン書)が彼らのバイブルとなった。

わたしは、この宗教に感化されたわけではないから、なぜコロンブス以前のアメリカにキリスト教があったのか詳しくは知らない。ただ、この宗教が非常に健康を重視することは知っている。まず第一に、信徒はお茶やコーヒー、アルコール類は絶対に飲まない。タバコも勿論ダメである。このせいか、アメリカでもユタは特異的にがん患者の少ない州となっている。

さて、日本での布教活動であるが、たいていユタ州出身の大学生(ユタ州はモルモン州とも言われる)を中心に行われている。彼らは、二人一組になって自転車を漕ぎ漕ぎ駅前などにやって来ては、そこで「無料英会話教室」を前面に打ち出したチラシを配りはじめる。実は、わたしもそのコマセ?に引き寄せられた一人である。しかし、釣り上げられてしまったわけではない。うまく餌だけを食ってきたつもりである。第一、この宗教に入ろうものなら、わたしの人生の楽しみが半減してしまうではないか。

ところで、今回のテーマは布教についてである。実はわたしは、ずいぶんと長い間無料英会話教室に通わせてもらいながら、いったい何のために彼らが一生懸命布教をやろうとしているのか未だよく理解できずにいる。
もちろん、自分達が信じる宗教を他の人にも分かってもらいたい、というのは分かる。しかし、現実的にはもっと他の理由があると思うのである。たとえば、彼らが学ぶ大学(ブリガムヤングなど)では、布教活動が義務付けられていて、これをやらないと卒業できないとか、あるいは学費の面で特典があるとか。

しかし、もっと大きな、根本的なことを問うなら、かつて飛行機も自動車もない時代から宣教師達は未開ののジャングルに分け入り、瘴癘の地に踏み入って布教に努めてきた。この理由というのはいったい何なのだろうと考えるのである。

確かに、需要と供給という関係からいけば、未開の貧困で病気の蔓延する地に住む人々は常に救いを、つまりは新しい神を求めていたはずである。また、供給する側にはミショナリーや様々な物資を送るだけの資金力もあった。
しかし、神の救いを供給する側にはいったい何の得があるのだろうか。何をバカなと怒られるかもしれない。けれども、わたしには、神の福音を世界中に行き渡らせるなどという、ただ理想のためだけに布教が行われてきたとは信じられないのである。

布教を行い、多くの信者を得ることができたとしよう。そのことによって、教会には布教のために使った金よりもさらに多くのお布施を得ることができるようになるはずである。勿論、宗教はねずみ講ではないが、信者が多くなればなるほど教会の経済的基盤は強力になり、さらに布教に力を注げるわけであるから、その力は加速度的に強くなっていくことであろう。

さらに、仮にそこが呪術のような宗教しかない未開の地であったとしよう。宣教師達が熱心に布教活動を行い、自分達の信じる宗教をしっかり根付かせてしまえば、わたしは、これはジャングルを切り開き、新しい土地を出現させたのと同じだと思うのである。

彼の地の人心を自分達の都合の良いように改変してしまう。これが布教ということであるとすれば、これは、密林を焼き払い、山を削り、川の流れを変え、その土地の姿形をすっかり変えてしまうことと同じである、と思うのである。

そして、現にこういう一連のプロセスを踏んで、未開であった地は文明の光射す「植民地」へと変わっていったのである。

モルモンに限らず、昔から日本という国にも多くの宣教師たちが訪れてきた。しかし、彼らにとって、この国は余りに恐ろしい国であったはずである。なぜなら、芥川の「神々の微笑」も教えるとおり、この国には八百萬の神が住んでおり、彼らがいくら熱心に唯一絶対の神を説こうとも、その神さえもいずれそのうちの一人として飲み込まれてしまうことは必定と思われたに違いないからである。

なぜ、宗教は布教を行うか。それは、わたしに言わせれば戦争と同じ理由によるものである。もっと端的に言うなら、男の播種本能によるものである。
どのような理屈で弁明しようと、布教とは他者への侵襲行為であり、侵略そのものである、とわたしは思う。

信じるものはすくわれる。ただし足元を、とわたしは言いたい。