日本語ガラパゴス論

2010/10/29 22:05


先日、日本語の曖昧さということについて書いた。日本語に限らず、言葉というものは本当に恐ろしい。言の葉と言うとおり、軽くてふわふわしていて、言葉の重みという言葉自体が撞着語のような気さえする。そのくせ、一度失言などをしてしまうと、政治家であれば政治生命を失い、あるいは実業家であれば、重要な取引を御破算にしてしまいかねない。

人は言葉を自由に操り、その言の葉という土台の上に巨大な文明を築き上げてきた。また、その言葉のゆえに生の悩みを深くしてきた生き物が人間でもあるのかも知れない。人がもしも言葉を獲得しなかったならば、という仮定は、アダムがもしも知恵の林檎を食べなかったならば、ということと同義である。言葉など手に入れなければ、いつまでも楽園の主でいられたかも知れないのだ。

良きにせよ悪しきにせよ、わたしたちが言葉に支配されていることは疑いない。会話をしているときは勿論、一人でいるときでさえ、人は頭の中で言語を駆け巡らせている。
少なくとも、数学者とか物理学者、あるいは音楽家棋士や画家などといった特別な職業の人がその職業に専念しているときを除いて、一般の平凡な人々が思案をするのはその母国語によってであろう。少なくとも、わたし自身はそうである。

わたしはいったい何を言おうとしているのか。実は今、頭に思い浮かんでいるのはガラパゴスのことである。わたしは、日本語というものを、このダーウィンが測量船ビーグル号での航海中に発見した島々に生息する動植物に準えてみたいのだ。
日本語というのは、日本列島という四方を海に囲まれた島国の中で生まれ育まれた言語である。つまり、この言語人口は日本の人口と常にイコールであり続けたと考えても良い。この点だけを論ってみても日本語とガラパゴスに生きる動植物とは非常に良く似ている。

日本語とガラパゴスとを結びつけて考えるのは、一つには、日本語によって醸成されたわたしたち日本人の言語感覚、ひいては思考体系が他の優勢な言語圏のそれと比べてひどく貧弱に思われるからである。
ガラパゴスに生息する動植物は、ガラパゴスに住む限りは、あのゾウガメやイグアナたちのようにのんびりと暮らせたであろう。しかし、彼らの将来は決してこれまでのように安逸であるとは決して言えまい。同じように、わたしは日本語によって培われた日本人の思考体系というものの将来にも危機感を感じるのである。

少し話が逸れるが、最近「ガラ携」という言葉を知った。これは、日本製の携帯電話が余りの高機能故に、かえって外国製のそれと比べて普及しない原因になっていることを揶揄したものだそうである。
また、さらに話が飛躍するが、以前にマッカーサーが日本人の知能は12歳児程度だと言ったということを書いた。しかし、これに憤慨する必要はまったくない。そもそもこの言葉は、マッカーサーが日本人を庇う意味で発したものなのである。つまり、先の大東亜戦争とは、子供程度の知能しか持たぬ純真無垢な日本人が、酸いも甘いも噛み分けた老獪な大国を相手に喧嘩を吹っかけてきたものであったのだと彼は論じ、だから許してやってくれと日本人を弁護するつもりで上の言葉を発したというのである。
こんなふうに書くと余計に憤慨する人もいるだろうが、ガラ携の高機能を見ても分かる通り、日本人の頭脳の優秀さは世界中の認めるところである。しかし、マッカーサーの目にはなぜ、日本人がそう映ったのかを考えてみる必要はあると思う。これはやはり、マッカーサーのような白人の目から見ると、日本人はガラパゴスのゾウガメとなんら変わらなかったからではないか。つまり日本人は、日本列島という極めて安全で居心地の良い揺籃の中ですくすくと伸びやかに育てられてきた。大陸に住む民族とは違って、血で血を洗うような過酷な生存競争を生き抜いてきたわけではないのである。おそらく、ダグの眼には、日本人は途方もなく善良で純真無垢な民族に映ったに違いないのである。

わたしは、この途方もなく善良で無垢であるということとガラ携とは同じであると思う。どちらも世界標準を大きく凌駕してしまっていて、世界では通用しないのである。

ガラ携は、日本人の間では必要不可欠と言っても良いほどに至便なものである。しかし、世界市場を目指したとき、やはりこれほどの高機能を求める国民がそうそういるとはとても思えない。
ガラ携は、ひょっとすると世界シェアの低さという一つの視点からは周回遅れのランナーのように見えるかも知れない。しかし本当は、このランナーはトップを走っているのである。つまり、いずれいつか世界は日本の技術に追いつき追い越そうとするようになるであろう。日本人とは、一見純真な12歳児のように見えながら、実はあらゆる面で時代を一歩も二歩もリードする大天才なのかも知れない。

しかし、やはりわたしには、世界から見ると日本は余りにユニーク過ぎることに変わりはなく、このままではのけ者のいじめられっ子になってしまうのではないかと危機感を覚える。

名は体を現すという通り、日本語と日本人とは一心同体のものである。その言葉の柔らかさ繊細さはそのまま日本人の気質を現している。しかし、マッカーサーのような人物の目には、おそらく、日本人のこういった繊細さや柔軟さは、そのまま12歳児の無邪気さに映ったに違いないと思うのである。

日本語は、日本人どうしであるなら、お互いが「腹」で分かりあうことのできる、言い換えれば行間を読むことによって理解できる言語である。
外国人が「あの人は思いやりが無さ過ぎる」という日本語的表現にびっくりするという話を聞いて、えっと思ったことがある。その外国人の言い分とは次のようなものだそうである。
「無いとはゼロのことではないか。だとしたら、ゼロより少ないということは論理的にはあり得ない。したがって、この日本語は論理的におかしい」
しかし、わたしなら、この外国人の思考のほうが余程おかしいと思う。なぜなら、思いやりが完全にゼロの人などそれこそ論理的に有り得ないからである。上の「なさ過ぎる」というのは、このようなことを踏まえた上での熟語なのである。
わたしが思うに、このように日本語というのは多分に省略された、エッセンスだけを残した言語である。日本人同士が同じ日本という四方を海に囲まれた狭い国内で使っている間に余計な、言い換えれば言わずもがなの、むしろ言えば野暮で無粋になってしまうようなことは徹底的に省いてきた言語であると思うのだ。要するに、良く洗練されこなれにこなれた言葉なのである。

その省略の最も極端な例が「どうも」というやつで、これはNHKのマスコットキャラクターにまでなっている。
「どうも」と一言聞けば、それが「ありがとう」なのか、それとも「さようなら」なのか、「初めまして」なのか、「お疲れ様」の意味なのかくらいは日本人ならすぐに分かる。
しかし、いくら優秀な外国人の通訳であっても、この「どうも」の意味を忖度して最も相応しい自国語に訳すのはかなり難しいことではないかと思う。

いつごろから日本列島に人が住み始め、今の言葉の基礎が築かれたのか詳しくは知らない。しかし、この島国にもかつては無人の時代があった。アフリカで生まれたという人類が世界中に拡散し、人口を増やしていく中で、ある日、ある種族がこの山紫水明の地にやって来た。そして、おそらくその種族がもともと大陸のどこかで話していた言語が基礎となって今の日本語の原型が出来上がっていったのであろう。つまり日本人も日本語も共に、おそらく初めて大陸から隔絶されたこの地に足を踏み入れ、そして定着していった種族のDNAを継ぐものなのである。そして、ガラパガスに住む生物たちと全く同じに、日本列島が揺籃となってその人もその言葉も慈しみ育まれてきたという風にわたしは考える。

わたしは、日本=ガラパゴスという図式で考えるとき、日本語とそれに象徴される日本人の気質や思考体系、さらには日本人がこの美しい山河の中で営々と築き上げてきた多くの美徳が、恰もガラパゴスの希少動植物が絶滅の危機に瀕しているように、そう遠くない将来がらがらと音を立てて崩れていくような気がしてならないのである。