カテゴリー認識について

2013/04/08 11:35


これは以前にも書いたことだが、たとえば信号機の青はアメリカ人にとってはblueではなくgreenである。

また、アメリカで飼われているlassieという名のコリー犬は、日本人がラッシーと呼んでも振り向きもしない(たぶん・・・)。

上の2例はカテゴリー認識というものが言語に介在しているということの証拠である。

青と緑というのは色相であって、青と緑の間にはほとんど無限といってもよいほどのグラデーションが存在するはずである。しかしわれわれは、その無限にある色相のどこかに線を入れて、これは青、これは緑と弁別しているのである。そして、この線を入れる場所がアメリカ人と日本人では明らかに違っている。日本人が青と感じる色をアメリカ人は緑に感じるということは、日本人の線の入れ方がより緑の方に片寄っているということを示している。

名犬ラッシーは、なぜ日本人の呼びかけに応えようとしないのだろうか。これは、もちろん犬のせいではない。日本人のLの発音がアメリカ人のそれと違っていて、その違いがラッシーには明らかだからである。だが、実はRとLという音の間にも無限段階のグラデーションがあって、限りなくRに近いLもあれば、限りなくLに近いRも存在する。

しかし、アメリカ人にとってはriceとliceはどちらも白いという以外にほとんど共通点はない。これはもちろん日本人にとっても同じであるが、日本人がこの二つを発音すると、どちらも同じライスになってしまう。つまり、日本語にはRとLとの発音上の明確な一線が引かれていない。どちらも「らりるれろ」という同じカテゴリーの音の仲間に入ってしまう。(余談だが、わたしは将来「らりるれろ」とはべつに「la,li,lu,le,lo」のカナを発明すべきときがくるのではないか、と考えている)

言葉には思わぬ陥穽が潜んでいる。言葉には注意が必要である。
騎馬民族であるモンゴル人には馬という言葉は存在しない。氷で住居を作るイヌイットの人には雪は存在しない。

モンゴル人にとっては、馬は雄か雌かは当然ながら、それが妊娠している馬かどうかなど、そういう細部にまで表現が及ばないただの馬は存在しないのである。それほど彼らにとって馬は大切なものだからである。

同様にイヌイットにとってもただの雪は存在しない。雪を表す言葉だけでも優に20を超えるという。

以上、カテゴリー認識について書いたが、思いの外に言葉というものは人間心理を支配しているという認識を新たにした。