相対性言葉理論2

2010/11/05 22:22


最近、言語というものに取り憑かれている。言語といっても、それは勿論日本語のことで、残念ながら、わたしはその日本語にしてもまだ満足に使いこなせる域には達していない。
しかし、ものの本によると世界には8000以上の言語があるのだという。これは、バイリンガルであろうとトリリンガルであろうと、自国語しか話せない者と大した変わりはないということにもなる。
それにしても、なぜ言語にこだわるかだが、よくよく考えてみると、わたしたちは言葉というものの奴隷になってしまっているような気がするからである。たとえば、この奴隷という言葉にしても、わたしは実際に奴隷の境遇になったこともなく、また奴隷と言われる人に会ったこともない。それなのに、平気でこのような言葉を使っている。これこそ、まさに言葉の奴隷になっている証拠であると思うのである。
しかし、実際問題として、いまさら言葉を放棄して生きていけるとは思わない。でも、仮に脳卒中にでもなって言語能力が失われてしまったとしたらどうだろう。もちろん、家族の者とも友人とも会話は出来ない。それどころか、言語による思考能力さえ失われてしまったとしたら・・・。
以前に相対性言葉理論なる日記を書いたことがある。この中でわたしが言いたかったことは、右と左が相対的な言葉であるように、保守と革新もまた相対的なものである、というようなことであった。

実は、先日ある本を買って読んでみると、これが非常に面白い。わたしが上に書いたようなことが様々な実験結果を交えて説かれているのである。
例えば、信号機の青である。あれを本当に青と思っている人は果たしてどれくらいいるだろう。色彩には少しばかりうるさいわたしは、あれは絶対に緑だと思う。アメリカ人であれば、必ずあれはGreenであると言うに違いない。しかし、日本人はあれをBlueと呼ぶ。この違いは一体何か? このような極めて基本的なことを突き詰めてみると、意外な真実に出会うことがある。少なくとも、日本人もアメリカ人も同じ信号機の「進め」を意味する色を見ているはずである。また、念のために言っておけば、アメリカ人とは一口に言っても日系のアメリカ人も黒人も白人もいるわけで、これは人種などの違いで色が違って見えるわけではない。結論的に言うなら、青も緑も相対的な色の名前であって、青に近い緑もあれば、緑に近い青もあることになる。わたしたちは、この緑と青の幅広いグラデーションのあるどこかに線を引いてここから右は青、左は緑と判別をしているわけである。決してそこに国際的な基準があるわけではない。青と緑の境を決めるのは個人的センスなのである。しかし、英語のGreenを単に緑と訳しても大きな間違いは生じないであろうが、アメリカ人が信号機のGreenと言っているのを、そのまま緑と訳してしまったのでは少しばかりおかしな文章になってしまう。わたしたちは、Green≒緑、あるいは、Blue≒青程度に捉えるべきなのであろう。
しかし、このような個人的なセンスで命名の変わる色を建物や什器や電化製品に使っていたのでは混乱が生じてしまう。実は、この相対的な「色」を絶対的なものにするために、ある基準が設けられている。ご存知の方も多いかと思うが、それがマンセル色記号というものである。

ところで、わたしがこの本を読んで面白いと思ったのは、GreenとBlueのスペルにも使われていて、英語を学習する日本人がまず最初にぶちあたる壁ともいうべきrとlの発音についてであるが、生まれたばかりの赤ちゃんにはこの違いがはっきり分かるそうである。しかし、この能力は日本人の赤ちゃんであれば、一歳の誕生日頃には失われてしまうらしい。なぜなら、生まれたての赤ちゃんには音のカテゴリーというものがないが、母国語に曝されるうちに母国語特有の音のカテゴリーを学習してしまうからなのだという。日本の赤ちゃんは、一歳頃にはrとlを同じ音のカテゴリーとして認識し、その違いに注意がいかなくなってしまうのである。
しかし、GreenとBlueと同じように、rとlの間にもはっきりとした境界があるわけではない。rとlの中間あたりの音もあるのである。しかし、英語話者は、その境界辺りの音をrとlの中間の音とは認識しない。このような音を人工的に作り、英語話者に聞かせると、ある地点までははっきりとrと認識し、ある地点を越えるとlと認識するのだという。このような認識をカテゴリー認識といい、実際にはない物理的な境界を話者自身の脳が作ってしまうということなのだ。

さぁ、わたしの意図は、上を敷衍することによって、この話の結論を保守と革新の違いというところに持っていくことにあるのだが、この続きはまた明日書くとしよう。