電車は走る

2010/12/13 22:00


通勤電車に乗っていると様々なことに出くわす。
近頃では電車の中で化粧をするうら若き女性を見ることは珍しくない。余り見たいとは思わないのだが、ついついどの程度の顔をしているものか興味が湧いてきて見てしまう。失礼ながら、これまで観察した限りでは10人並以下がほとんどであった。そもそも美人なら、わざわざ電車の中で化粧して化ける必要などないからであろう。しかし、そんな顔でもたっぷりと時間をかけて、実に計ったように正確に電車を降りる頃になると別人のような美人に変わっている。まるで腕の良い左官屋さんを見るようである。

しかし、わたしは思うのだが、電車の中で堂々と化粧をする神経というのはどういうものだろう。何人もの赤の他人に自分を見られているという意識はないのだろうか。隣に座った人の迷惑を考えないのだろうか。

わたしは昔何かで、ある猫の話を読んだ。何かの雑誌のコラムだったか読者の投書欄だったか忘れたが、その黒い飼い猫は、自分がすやすや昼寝をしているときに、たまたま主人の女性が電話に出て話をし始めると「昼寝の邪魔をするな」とばかりに受話器に猫パンチを喰らわせるらしい。猫なら本能の赴くままに気に入らないことは抗議できる。しかし隣の心優しいおじさんは、いくら煩いと思ってもなかなかコンパクトをはたくことなど出来ないのである。

まだ若かりし頃、満員電車の中でつり革につかまって窓の外を見ていると、急に電車が大きく揺れて、つり革を握ったまま思い切り窓の方へ身体が押し倒された。そのとき、わたしの膝が前の席に座った女性の脚の間に入っていった。すると、その女性はスカートをはいた脚を大きく開いて私の膝を迎え入れてくれた。「す、すみません」とわたしは小声で言ったのだが、本当は「あなたのことが好きになりました」と言いたかった。実に爽やかな顔をした美人だったからである。

また、これは半年ほど前の話なのだが、電車の中で立ったまま雑誌を読んでいると、4人掛けのボックス席で何か不穏なムードが漂い始めた。どうやら、その席に座った一人のでぶっちょとその席の横に立った輿石東を禿げにしたような(輿石はすでに禿だったか)男が言い争いになったらしい。おそらく、鞄が当たった当らないといった類の詰まらないことが原因と思われたが、電車が速度を上げて走り始めるとともに、その不穏なムードの方も、まるで相撲の仕切りか恋猫のいがみ合いのように、だんだんとエスカレートしてきた。しかし、なかなかはっけよいとはならない。そのうちに、次の駅で電車が停まり、その4人掛けの席の一番奥が空いた。輿石のとっつぁんは鞄を網棚に載せてその空いた席に座った。でぶっちょの斜向かいである。対談をするには良い位置関係だ。しかし、対談などとはまったく違って、やはりトムキャットがフッーと吐き出す、おぞましいウォークライのようなものが、雑誌ときゃつらを交互に見比べているこちらにいやでも伝わってくる。さぁいつ始まるかと期待に胸を躍らせた。さぁ、早く雌雄を決してくれ、と本気で願った。

その願いは、次の駅で電車が停まったときに叶った。輿石が鞄を網棚から降ろして席を立ったときに、どうやら、こちらからは見えなかったが、でぶっちょの足を蹴飛ばすか何かやったに違いない。でぶっちょは、その体格からは想像もつかない素早さで、電車を降りようとする輿石東に飛び掛っていった。輿石も相手が血相を変えて襲い掛かってきたものだから、すぐに臨戦態勢を敷いた。しかし、悲しいかな、慣性の法則に従い、重量と速度に優るでぶっちょの方が輿石をぐんぐんと出口と反対の扉の方向に押し出していく。その勢いに、輿石東、まるで歌舞伎役者のように片足で蹈鞴を踏みながら三人掛けのシートに押し倒されていった。

驚くべきことが起こったのは、実にこのときであった。その席に座っていた女性の膝に輿石は座り込むように倒れたのである。すると、この女性、すっと立ち上がり際に輿石の頭を掴んだかと思うと、左手でプロレスラー顔負けの本格的ヘッドロックをしながら「なにすんだよー、てめぇー」と大声で叫んだのである。

わたしは唖然としながらこの光景を見ていた。実に驚いた。戦後靴下と女性は強くなったと小学生の頃に聞いたが、それが今頃になってようやく実感できた。

輿石東は、ほうほうの態で電車を降りた。でっぶちょは席に戻ると、荒い息をしながら「あいつ、ほんとに頭おかしいよ」としきりに眠ったふりをしている乗客につぶやいていた。