薔薇色の放屁

2016/03/25 06:41

厚顔の美少年だったころ、太宰治をよく読んだ。太宰は井伏鱒二に師事していたから、何かの短編の中に井伏氏が登場し、「・・・氏が突然放屁された。実につまらなそうであった」というようなことの書かれた行に出くわした。そうか、井伏鱒二は平然と人前で放屁をするひとであったのか、と思った記憶がある。また、果たして氏は、退屈で詰まらないから放屁をされたのか、それとも屁などを放ってもちっとも面白くない、という老境にすでに入っていたのだろうか、などと考えた。

上は枕である。わたしは粋人であるが、ときに酔人になることがある。先日も少しばかり酒を聞し召して電車に乗り、家路についた。そのときに4人掛けの向かい合ったシートに姉と弟らしき小学生二人が窓際に向かい合って座っていた。電車は立っている人がちらほらいるくらいには混んでいたが、彼らのところは二人分きっちり空いている。塾の帰りらしく、姉弟の両人ともトートバッグのようなものにノートや本を入れていて、姉は本を読み、弟はジャガリコのようなものを細い指でつまみ上げては食っている。弟の隣の座席にはバッグが置かれていて、そのために誰も座ろうとしないのであった。わたしは姉の隣に座っていいかと尋ねてから腰を降ろした。訊くと、姉が5年生で、弟が3年生ということであった。

それからは少し沈黙が続いたが、わたしはいつもの悪戯心が湧いてきて、窓の方に手を伸ばし、指で「ここが北で、ここが四、そして一番下が九でこの空いたところに長い縦長の円を描くでしょ・・・」と言いながら円を描いてみせた。「さてこの円の中にはなんという字が入るでしょう」とクイズを出したのだ。
二人とも目を輝かせて考えはじめた。わたしは、この目がたまらなく好きなのだ。ジャガリコを食うのを止めて、弟も一生懸命考えだした。しばらくしても、なかなか難しいらしく、答えが返ってこないので、地理の問題であること、そして君たちもおじさんも好きなものだよ、とヒントを与えてやった。それからもしばらく考えていたが、先に答えが分かったのは弟の方だった。「分かった、本州でしょ」と言った。姉が「じゃぁ、本?」と言うので、「その通り」と褒めてやった。
そして、ここがわたしの利口なところなのだが、そうして打ち解けたところで、おもむろに、
「そこにも誰か座りたいひとがいるんじゃないかなぁ」と弟に言うと、彼は慌ててバッグを足元に置いたのである。実に可愛いものである。

さて、この話と放屁にいったいどんな関係があるの?と問われると、実はなにもない。ただ、小学生のころ、少なくともわたしは、電車の中や教室で屁を放るなんてことはなかったなぁ、と思うのみである。もちろん、上の姉弟が放屁をしたわけではない。子供の腸は、ガスが溜まっても容易に血液に吸収させてしまうだけの能力をもっているのだ。

ところが、これは特に朝の通勤電車でよく出くわすことだが、突然なんの前触れもなく、黄色い臭いが立ち込めることがある。もちろん、この発生源はわたしではない。すると・・・、と辺りを見回しても、はい、すみません、わたしがやりました、という顔をしているひとはいない。俯いている者もいない。傲然としている、もしくは、犯人は俺じゃないぞ、とばかりに目をきょろきょろさせている者はいたりする。

電車の中で放屁するのは犯罪ではない。しかし、ばつが悪いのは、まぁ公然の、というか常識である。わたしの判定では、音ばかり派手な放屁の方がすかしっ屁と呼ばれる悪臭だけの放屁よりは罪が軽い。第一、堂々としているだけに批判はしにくい。

わたしが思うのは、腸内ガスがたとえば薔薇の香になる薬品、あるいは食品ができないものであろうか、ということである。
そうすれば、朝の電車が爽快なものになる可能性がある。毎日の通勤が楽しくなるかもしれない。毎朝、あちらでボン、こちらでボンという音がして、それとともに香しき薔薇の臭いが・・・。
それとも、こんなものが開発されれば、結局薔薇が貶められることになり、花屋さんの薔薇の売れ行きが悪くなってしまうだろうか。

そうだ!それなら一層菊の香りにすればどうだろう。
やはり、愛するわが国を貶めてしまうことになるのだろうか。