仮想と現実について

2010/12/15 23:12


一昨日の日記にある猫の話を書いた。この猫、雄の黒猫ちゃんだが、飼い主である女性が電話に出て話しはじめると、自分の昼寝を邪魔されたとばかりに飼い主の胸元まで飛びついて、受話器に猫パンチを加えるらしい。
この話を書いていて思ったのが、これは特に女性に多いという気がするのだが、普段の口調と電話に出たときの口調が極端に変わるということである。だから、ひょっとしたらこのネコちゃん、これが気に食わなくて猫パンチなど繰り出したのではないかと考えたのである。

実は、わたしも母が電話に出るときの声の調子が変わることがとても嫌だった。もちろん、こどもの頃の話である。今までさんざん成績のことでわたしを叱っていたくせに、電話が鳴って受話器を取ったとたんに声のトーンが高くなり、言葉もわずかばかり上品になる。これを目の当たりにすると、サリンジャーじゃないが、大人というものの醜い一面を見たような気になったものである。
しかし、長ずるにつれ、このような、大人の偽善というと大仰だが、虚栄心のようなものに対するセンスが鈍くなってきた。これはつまり、自分自身がかつては嫌だった汚い大人の一員になったということなのであろう。
子供の頃は、テレビドラマなどを見て、これは嘘だと良く思ったものだ。茶の間のシーンなど、絶対にこんな風に会話が進むはずがない。この場面で、こんな風に飯を食うはずがない。これは明らかに演技だと感じた。だから、ドラマには没入できなかった。ところが、今ではこの嘘っぱちの世界を随分と楽しんでいる。「坂の上の雲」などを見て感涙に咽んでいるほどだ。いくら明治の時代とはいえ、あんなに人間を美化してはいけない。所詮、人間など糞袋ではないかと思うのだが、やはり子供の頃と比べると物を見る目がなくなっていることは間違いない。

そこで考えたことがある。テレビや映画などがなかった頃と比べ、人間は明らかに劣化しているのではないかということである。なぜなら、歌舞伎や舞台演劇ならまだしも、テレビや映画というのは、人間を仮想現実の世界に引きずりこむものだからである。実際にはありもしないことを本当のことだと錯覚させるものだからである。わたしたちの脳は、知らず知らずのうちに現実と仮想の世界の区別がつかなくなってしまっているのではないだろうか。
さらに、これはひょっとしたらテレビや映画に限った話ではないかも知れない。というのは、本や講談などによっても人は仮想現実を味わうことができるからだ。子供の頃に偉人の話を読む。たとえば野口英世。千円札にもなった人物である。黄熱病の研究中に自ら黄熱病に罹って死んだ。だから本当の実績は黄熱病ではなく蛇毒に関するものだった。
わたしは、彼の伝記を読んだとき、素直に感動した。素晴らしい人物だと思った。しかし、今となってはまったくそんな思いは湧かない。当世書生気質に出てくる野々口清作に似た自分の名前が嫌で名前を英世にしたことも、故郷の我が家を見せるのが嫌さにアメリカ人の妻を連れて一度も帰郷しなかったことも、今となっては軽蔑すべきことのように思える。いや、今になって思うのは、本当に立派だったのは、母親であるシカさんだったのではなかろうかということである。
なぜ、こんなことを長々と書くか。結局は、子供にしても騙されてしまうと言いたいのだ。いや、騙されるなどと言ってはいけない。仮想の世界に連れていかれてしまうのである。子供向けの伝記本とはそういうものなのだ。子供だけではない、立派な?大人も坂の上の雲という素晴らしき明治の群像を見て騙される。これはいったい何故なのか?
これらは皆、作り物だからである。見る者に、あるいは読む者に何らかの感動を与えるべく知恵を絞って拵えたものだからである。
しかし人生で本当に大切なことは、現実の問題に対処できるだけの知恵を得ることである。それには、やはりバーチャルの世界からの知識では駄目である。現実問題に対処する方法は身をもって体験することによってしか得られない。

イギリスの諺に「本を読むより馬に乗れ」というのがある。わたしは、これを自戒の言葉にしよう。