ニューヨークのスギハラ

2010/12/13 14:25

 

文藝春秋一月号を読んでいたら、感動的な文章に出会った。作家でもありエッセイストでもある岡田光世さんの「ニューヨークのスギハラ」という一文である。
氏は東京生まれなのだが、ニューヨークに長年住まわれているため、帰国するたびに右も左も分からず戸惑うことがあるのだという。この文章は、そのときも東京駅で出口が分からず、見知らぬ人に尋ねたところ親切に教えてもらった。すると、一緒にいた弟が「そういうことは駅員に聞きなよ」と嗜めた、という書き出しから始まる。
氏は、どうやらニューヨーク住まいが長いために、日本の現在の慣習に疎くなっているということをさらりと書かれているのだが、実は、これはわたしたちが心して、警句として聞かねばならないことであろうと思うのである。

さて、話はニューヨークでの氏の体験談である。昨年の夏、シカゴからニューヨークへ向かう飛行機で、生後間もない赤ちゃんを抱いた白人女性が隣に座った。氏が「いつ生まれたのですか」と聞くと、その女性は「明日でちょうど5週間、シカゴに住む夫の両親に、孫の顔を見せに行った帰りなんですよ」と答えた。
たわいもない会話の後で「あなたは日本人ですか」と女性が聞いた。「そうですよ」と答えると、少し間をおいてから「ミスター・スギハラをご存知ですか」と聞いた。
リトアニアの領事館にいた杉原さんですか」
女性は私の目をまっすぐに見た。「ミスター・スギハラは、祖父の命の恩人なんです」。

ここで、ご存知の方も多いと思うが、リトアニアの領事であった杉原とは、日本のシンドラーとして有名な杉原千畝のことである。杉原は、ドイツ占領下のポーランドから着の身着のままで逃れてきたユダヤ人に対して、外務省の命令に背いてまでビザを発給し、6千人もの命を救ったと言われている。

話を戻すと、当時、女性の祖父は、ユダヤ教の神学校に通っていた。学生らの命を救うために「どうか、三百人分のビザを」と嘆願され、杉原氏はそれを聞き入れた。ある学生はビザ発給の手伝いを買って出た。
こうして祖父は、学友らとともに、杉原氏が発給したビザを手に無事、神戸に辿り着いた。その後、上海へ渡り、やがてアメリカに永住する。
祖父の家族は皆、ナチス・ドイツ軍に虐殺された。川に沈められ、自ら掘った墓穴の前で射殺され、この地域のユダヤ人はほとんどが生き残れなかったという。
十二年前にニューヨークで、亡き杉原氏の人道的偉業を讃える式典が行われた。祖父は杉原氏の息子の手を握りしめたまま、離そうとしなかったという。当時、九歳だった女性は、そのことを今も鮮明に覚えている。
「ミスター・スギハラがいなければ、私もこの子も、今ここにはいませんでした」
私はその三年前の出来事を思い出していた。マンハッタンの南部で、コーシャフード(kosher food=ユダヤ教の律法に準拠した食品)を扱う店にふらりと立ち寄った。
例のごとく、カウンターにいた女性店員に話しかけた。私が日本人と知ると、その店員はミスター・スギハラを知っているかと聞き、日本人がいかに素晴らしいか、一息にまくし立てた。
そして食品棚へ駆け寄り、大箱のクラッカーやウェハースなどを片っ端からビニール袋に詰め込み、私に差し出した。「お金は払わないで」。
杉原氏の功績を讃えるパーティが開かれたとき、この店は感謝の思いを込めて、食料品はすべて寄付したという。
ふと我に返ると、隣の席で、赤ちゃんは母親にすべてを委ね、まだ眠っていた。
杉原氏が書いた一枚のビザが、ひとつの命を救い、祖父から息子へ、息子から孫へ、孫から曾孫へと、その命が受け継がれている。
じつは私は、この便に乗る予定ではなかった。前の便の到着が遅れ、予定していた乗り継ぎ便に間に合わなかった。隣の女性は女性で、乗るはずだった便がキャンセルになり、この便に乗り合わせた。偶然に偶然が重なって、私は奇跡の命の連鎖に遭遇できた。
ひと声から生まれる、忘れられない出会いがある。たとえ咎められても、私の「癖」は、死ぬまで直りそうもない。

以上だが、この文章からわたしは二つのことを学んだ気がする。一つは、杉原千畝氏の人道的行為についてである。このような善行は国を越え世代を越えて伝えられるものであるということである。
もう一つは、これは岡田氏が半ばシニカルに日本の現状を評しておられるととるべきだが、特に都会での人間関係の希薄さについてである。同じ大都会でもニューヨークでは、見知らぬ同士が気さくに声を掛け合う。これは映画などでも当たり前に見られるシーンである。ところが、日本ではこういう光景にはめったにお目にかかれない。いったい、どうしてこんな惨状になってしまったのか一考が必要であろうと思うのである。