ベテルギウス

2011/04/24 18:16


べテルギウス。マヤカレンダー。そして日月神示。これらに共通するものは何か。2012年人類滅亡説である。
かつて、ノストラダムスが大流行したが、1999年が何事も無く過ぎ去ると、人々の関心はものの見事に雲散霧消してしまった。

そして、また新たな予言である。wikiで調べると、何でもイギリスのある天文学者が2012年にべテルギウスという直径が太陽の千倍もある巨大な星が超新星爆発する、という説を唱えているのだという。爆発の兆候はもう何年も前から顕れていて、不思議なことには、この爆発が起きるとされる2012年というのは、マヤ暦最後の年なのだそうだ。まことに奇妙な符合である。さらに不思議なことには、日本には、日月神示という一種のお告げを記録したものがあり、それには、太陽が二つにも三つにもなるときが訪れると書かれている。これは、以下の通り。

「天にお日様一つでないぞ、二つ三つ四つ出て来たら、この世の終りと思へかし、この世の終りは神国の始めと思へ臣民よ」

実に恐ろしい予言というしかないが、しかもこれを上のべテルギウスの爆発と結びつけて考えると、俄かに信憑性を帯びてくる。なぜなら、ペテルギウスが爆発すると、いや実際にはもう既に爆発していると考えねばならないのだが、その神々しいような光は、まるで新たな太陽が出現したかのごとくとなり、何日か何週間かは知らないが、夜が真昼のような明るさになってしまうらしい。当然、超新星の爆発であるから、恐るべき放射線のシャワーが地球を襲うことになる。
さあ、いよいよか、と本気で恐れる人も少なくないに違いない。

今、わが国は大震災により、国も人心も揺らいでいる。今回の地震は天罰である、との妄言も、ただ妄言とは受け取れないような状況にある。
かてて加えるかのように、このべテルギウスなどといったキーワードが人々の心に打ち込まれると、人心は一層混乱するに違いない。

しかし、ノストラダムスにしろ、マヤカレンダーにしろ、いったい何故予言などというものが可能なのであろう。いや、いったい何ゆえに、人は予言などというものを信じるのであろう。
面白いことに、予言というものは大概、大洪水が起こるだとか、あるいは大地震が起こるだとか、太陽が二つになるだとか、人の恐怖心を煽るという趣向を持っている。
そしてさらに面白いことには、わたしたち人間という生き物は、自分自身明日をも知れぬ身であるのに、超新星の爆発や隕石の衝突といった何百年、何千年も先に果たして起こるかどうかも分からぬことを本気で心配するという性質を持っている。
確かに、人類は万物の霊長であり、そのDNAには37億年にも渡る地球の歴史が刻まれているであろう。そしてその歴史というものには、巨大隕石の衝突や気候の激変ということもあった。超新星の爆発もあったに違いない。おそらく、ヒトのDNAは、その螺旋のどこかにこのような記憶を深く刻んでいるに違いない。
しかし、わたしが考えてみるに、人というものはただ単に取り越し苦労が好きな生き物なのである。取り越し苦労をしたいがために予言を信じ、かたかたと恐怖に慄いている。幼児が怖い話を聞きたがるのとまったく変わらない。

人は、自然を敬い畏れねばならない。それが今回の大災害が教えてくれたことであり、われらがDNAに深く刻まれているに違いないことである。しかしまた、人は迷信を好む。単なる脳の過剰な反応に過ぎないようなことを神がかりと信じてしまうような傾向がある。げんを担ぎ、ジンクスにこだわる。

べテルギウスの大爆発。さあ、わたしはこれを信じるべきか。それとも、とんでも科学として無視すべきか。