無法松の苦笑

2011/05/20 19:31


先日、無法松の一生を見て感動したと書いた。
これに対し、Mさんより思わずわが目の鱗が落ちるほどのコメントを戴いた。これは本当に面白い視点である。

おそらく、今の女子高生あたりから見ると、松五郎のような男はストーカーのごとく映るのであろう。もちろん、未亡人の良子は、松五郎の長年にわたる親切に恩義を感じこそすれ、少しも迷惑などとは思っていない。ただ、今どきの少しばかり口の達者な女子高生などに言わせれば、その精神性はストーカーと少しも変わらない、ということになるのかも知れない。

ちょっとこの男、すっげーネクラじゃね! ちゃんとコクればいいじゃんねぇ。ダッセー。ウチこういうタイプぜんぜんアカンワ。

わたしには、彼女たちのこういった声が聞こえてきそうな気がする。

仮に、こういうコギャルたちにこの映画をムリヤリ見させたとする。彼女たちがわざわざ金を払ってまで見るわけがないから、逆に金を渡して見せたとしよう。そうすると、館内はまるでコメディーを見ているかのような下劣な笑いで溢れかえるのではないか、とわたしは想像し畏縮してしまうのである。たかがコギャルごときにと哂う勿れ。彼女たちのものの感じ方は決して侮れない。

わたしが松五郎の純な心に胸を打たれ感涙に咽ぶ。その一方で、コギャルたちは「ダッセー」などと指差しながら声を上げて笑う。なんという世代の隔絶。

しかし、それも良い。良しとしよう。時代は移り変わっていくものなのだ。コギャルたちも時代と共に変わってきた。彼女たちはいつも、その感性という点では常に時代の最先端を担ってきた。いや、時代こそが彼女たちの感性とシンクロするかのように移ろってきたのだ。

感性豊かな彼女たちに松五郎の心が分からないわけはない。分かってはいても、やはりそれはダサいのである。
ダサいに対する言葉はヤバイだが、今、彼女たちにひたすら求めるものがあるとすれば、それはヤバさであろう。その感覚は、おじさんにはなかなか理解できるものではないが、危険なほどの何か、ということは分かる。美しさかも知れないし、冷淡さかも知れない。知性かも知れないし、金儲けの能力かも知れない。しかしそれは、松五郎のような善良さや誠実さ、それに地を這うような努力では決してないことは確かだ。

ヤバイ。ヤバカッコイイ。しかしそれは、世の中が本当に危険であった時代には彼女たちが決して求めなかったものではなかろうか、とおじさんは思うのである。