新昆虫記

2011/11/22 09:22


辻まこと(虫類図譜)へのトリビュートとして本稿を記す。

1、自己虫

この虫はごくありふれており、蝿や蚊のごとく取り立てて記すことはない。しかし、その平凡さこそがこの虫の栄養であり、またイゴセントリック・ドグマという教条によりその永続性を保ってきた。

また多くの昆虫綱ハチ目などと同様に太陽の位置を自己の行動の基準とする事から、その脳幹にジオセントリック・ドグマを内含しているものと考えられている。

日本名は上のごとく自己虫と書き、ジコチュウと読むが、英語名では"s(c)ellfish"という魚の一種となる。このように、この虫は、国によりときにその姿形を変容させて出現することがある。

cellfishは河豚(boxfish)とはやや字面が似ているものの全くの別種である。混同しないよう注意が必要である。また、boxfishの場合、これを食すると肝臓に有するテトラドキシンにより死を招くことがあるのに対し、cellfishは自己中毒により精神に変調をきたす場合のあることが指摘されているが、これは一種のヒステリーに過ぎないと主張する学者もいる。

2、疳の虫

これは寄生虫の一種である。主として免疫力の弱い乳幼児に着くが、ときに社会的地位のあるよい歳をした大人にも取り付くこともあり、その場合の症状を癇癪と呼ぶことがある。
癇癪の典型的症状は、顔が紅潮し口から泡を吹いて卒倒することであるが、多くの場合、発作のきっかけがはっきりしており、癲癇とは発症の機序が全く異なる。また治療法も違うので、医師は両者の弁別に細心の注意を払わなければならない。

対症療法として、古来より灸が効果を発揮してきた。私事ながら小生も幼少のある一時、この虫に取り付かれたことがあり、祖母より「それでは灸(やいと)をしようかのう」と極めて優しい声音でその都度脅かされたことにより、今ではすっかりこの虫も居所を変えてしまったようである。

3、アル虫

これもまた寄生虫である。古来、酒神バッカスに祝福されし者の病と信じられており、これを宿した者の多くは詩人となる。
有名な罹患者にその名もアル虫ール・ランボーというフランスの詩人がおり、名詩「酔いどれ船」はこの虫による譫妄状態のときに書かれたものと言われている。また共感覚を謳ったとされる「母音」についても同様である。

アル虫は雌雄異体であるが、雌雄が同時に寄生するケースは少ない。雄が寄生した場合、多くは詩人となり、ときに乱暴狼藉を働くことがある。この場合は、一般的に陽性であり、周囲を明るくするなどの効用も認められ、このためか本病に対する世間の受け止め方は、特に本邦においては非常に寛容である。

雌が寄生した場合には深刻な症状を示し、罹患した者の多くは陰鬱に沈みがちである。特に女性はキッチンドランカーと呼ばれる末期的症状に陥ることがある。

この寄生虫については、人の肝臓の酵素のあるなしによって寄生しにくい者としやすい者とが明確に分けられ、この虫の存在が知られる以前には、上戸、下戸という風に呼ばれていた。
また、いわゆる詩才の全くない下戸が酒神の誉れを受けようと無理をした場合には、直ちにこの虫の毒に当てられ急性の重篤な症状を呈することがある。

雌雄いずれが寄生しても、患者は振戦を示し時に譫妄となり痴呆が進行する。

本邦においてもこの病気は増え続けているにも関わらず、これの主たる所掌官庁が厚生労働省ではなく、警察であるというところに問題の本質が隠されてしまっている、と指摘する学者が多数存在する。

4、輝虫

週刊新潮川上未映子さんのオモロマンチック・ボムに次のような話が載っていた。

最近、わが子におかしな名前をつける親が増えているらしい(わたしは、川上女史こそ、自分のコラムによくもこんなおかしな名前をつけたな、と思っているのだが・・・)。
で、その代表的な名前が輝宙だそうだ。これ、なんて読むかというと、ピカチュウ
わたしもこの歳にもかかわらずピカチュウは大好きだが、いくらなんでも・・・、とやはり思ってしまう。

「あなた、このお名前は、なんてお読みすればよろしいので・・・」
「はい、ぼくピ、ピ、ピカチュウです。ピ、ピ、ピカッ~」

その川上未映子さんが、ご自分のブログ「純粋悲性批判」にこれまた面白いことを書かれている。

甥っ子は電話を拒否
このように、曇りがおもおもしく茂げり垂れてる最中に、暖房器具がないので、寒いわけで、厚手の靴下をはき黙って部屋で仕事をするというのは、行ったことないけれどもなんとなく北欧の気分で、いいね。
しかしあまりにも何の音沙汰もないでの、大阪の5才の甥っ子に母親(姉)経由で電話をすれば、「みえこ、うーさい」ってな具合で最近は拒否されているわけで、生意気になったものです。「今度ね、ってみえこにゆうたげて」とか電話の向こうであしらわれたりしてるわけ。
先日、父親が倒れたときも、母親(姉)があわてふためくなか、ゼリーなどを食し、「とりあえず、お薬のんだら治るでしょー」と放ち、母親が「薬で、治らんかったらどうするの」ときけば「え、そしたらお薬、倍のんだら治るでしょー」とか云う始末。何が倍か。
そしてこの前、電話でわたしが、
「あなた、最近ピカチュウにご執心らしくって、わたしはとことん残念やわ。あんな誰も彼もが無反省に追いかけてるキャラクターをおまえも好きだなんて。どうやの。あんなの、単に黄色いだけですやん」と苦言を呈せば、
「えー、そしたらみえこがこどものときから大好きなドラちゃんはどう。ドラちゃんなんて、単に青いだけですやん」。
わたし、ま!つって、もういっかい、ま!つって、結局、ま!しか云えず終い。「じゃね!」とか云われてそのままプッ。曇りはよく見ると、真っ白であるな。