閃きについて

2011/11/24 19:42


歳をとってさっぱり閃かなくなったわたしの脳みそでも、ときに電池の切れかかった電球ほどの鈍い輝きを見せることがある。

たしか、レオナルド・ダ・ヴィンチだったと思うが、壁の染みにも人は様々なものを見ることができる、と言っている。
わたしは、幼稚園の頃に家の磨りガラスについた大きな染みを見て、これは甲冑を着て盾を構えた兵士だと思った。そして50年経った今でもその形をはっきりと憶えている。

音についても同じであろう。なぜ、このように考えるかと言うと、あの311のときのことである。
津波に流された子を探しに行った父親が波の音や風の音、その他もろもろの大きな雑音の中にわが子のか細い声を聞いて無事助けることが出来た、という話を思い出したのである。

カクテルパーティ効果とかの名で知られるこのような現象は、当然に奇跡などではなく、人は染みの中にでも見たいものを見るし、嵐の中にでも聞きたい声を聞くことができるということに過ぎない。

しかし、この「過ぎない」ことに実は、天才の閃きの素が潜んでいるのではなかろうか、という風にふと閃いたのである。

目を瞑ってみるとよい。瞼の裏にオーロラのような青や緑やピンクの光を感じないだろうか。

目を瞑って見えるのは色や光である。だが、脳の中では色や光とは違った様々な揺らめきのようなものがあるに違いない。
そして、例えばある数学者がフェルマーの最終定理をずっと考え続けていたとしよう。
あるとき、彼は突然インスピレーションに襲われる。今まで考えに考え抜いて得られなかった解が突如としてブレークスルーするのである。
そのきっかけが何であったかは、あるいは彼にも分からないかも知れない。しかし彼は、考えに考え抜いた末に、喉から手が出るほどに欲しかった解を遂に得たのである。
これをわたしは、壁の染みに本物の竜を見た人に喩えたい。竜をずっと絵に描きたいと思った彼は、ひたすら壁の染みを見て竜が現れるのを待ち続けた。何日も何ヶ月もかかって、あるとき彼は遂に竜の姿を染みの中に見つけ出して息を呑む。それは、まさに彼が待ち望んでいた厳かな本物の竜の姿であった。

わたしのささやかな閃きとは、上の如きものである。わたしは、脳の中で何が起きているかなどは知らない。だが、わたしの脳がこの宇宙のコンサイス版であるということだけは分かっている。
だから、天才のインスピレーションというものも、不安定な大気の揺らめきによって突如として天が掻き曇り、辺り一面真っ黒となった中でライトニングサンダーの如く閃くものであろう、と思うのである。
実に、閃きとは良く言ったものである。