2015/08/02 14:58
必然と偶然は同じコインの裏表である。「わたし」という一個の人間が存在するのは偶然ともいえるし必然ともいえる。
① なぜ、「わたし」の存在が偶然か? それは、この宇宙のあらゆる可能性の中から「わたし」が選ばれたからである。
② それでは、なぜ、「わたし」の存在が必然か? それは、この宇宙のあらゆる可能性というのは、すべてが必然だからである。
①は、現在から未来を見る立場によるものである。
②は、現在から過去を見た立場によるものである。
コインはトスしてみてはじめてトップとテイルが決まる。①の立場である限り、表が出ようが裏が出ようがそれは偶然の結果である。
②の立場からは、表が出ようが裏が出ようがそれは必然であったのだ。
このように、偶然と必然を切り分けるのは、現在という極めて鋭利な刃物である。
②の立場からは、「わたし」が存在するのは必然の結果である。
「わたし」は一個の人間であるから、普通の意味では何年、何十年と同じ「わたし」である。3歳の幼児であった「わたし」も80歳の老婆となった「わたし」も同じ「わたし」と捉えるのが普通の見方であろう。もちろんこの裏には、厳密に言えば、「わたし」は一瞬だけの存在であり、1秒前の「わたし」と現在の「わたし」はその構成する原子も分子も変わってしまっているから同じとは言えない、という反論も潜んでいる。
しかし、まぁ、一般的な意味において「わたし」は生まれてから死ぬまで「わたし」なのだから、②の立場から言えば、「わたし」というのは一たび生まれてしまった以上、その後の「わたし」という存在は必然のものである、という論理になる。
さて、その「わたし」が類稀なる絵の才能を持って生まれたとしよう。「わたし」は長じてA画伯となった。
A画伯には画才があったのはもちろんだが、Aは必ずしも自分の描く作品のすべてに満足していたわけではない。いや、それどころか描く作品、描く作品のすべてに嫌気がさして、頭を掻き毟りながら「ああ、なんて俺には絵の才能がないのだ」と気も狂わんばかりになっていた時期もあった、かも知れない。
しかし、あるとき、彼はこう気づく。俺には確かに才能がある。これまでも数々の賞を総なめにしてきた。有力なパトロンが何人もいるしアトリエも自慢できるほど立派なものだ。
あと、俺に足りないものがあるとすれば、インスピレーションだけなのだ。
こう考えた彼は3年もの間、放浪の旅に出る。酷暑のインド、瘴癘のアフリカ、厳寒のアラスカを旅し、ガンジスで沐浴する人々や物乞いを描き、アフリカではマサイの成人式を描き、アラスカではオーロラの空の下で白い息を吐きながら遠吠えする狼の群れを描いた。これらの作品は畢生の作品として後々まで、彼の偉業を称えるものとなった。
さて、彼の作品は必然によるものであったのだろうか、それともそこには偶然の入り込む要素があったのだろうか。