数学と精神

2014/06/19 10:39

数学のいったい何が精神か、と聞かれると、数学は学問であるから、学問そのものが精神であるはずはない。しかし、数学そのものは立派な精神である、とわたしは信じて疑わない。なぜなら、数学はすべての基礎であり、物理学にしても数学の助けなしには成り立たないからである。

たとえば、アインシュタイン特殊相対性理論は比較的簡単な幾何学である。一般性相対性理論となると、幾何は幾何でもユークリッド幾何学では解明できない。アインシュタイン程の天才であっても、そのアイデアを理論化するには数学者(ミンコフスキー)の助力を得なければならなかった。

ところで、その比較的簡単な方の特殊相対性理論から導かれる式に有名な E=mc^2がある。

これは、一般的に質量とエネルギーの等価原理と呼ばれている。式中のcは光速度である。

ここで一つ疑問を呈するなら、なぜエネルギーに光の速度が関係するのだろう。相対性原理の基本的なところをおさえずにただ方程式だけを知っているような多くの人にとっては、これは不思議なことに違いない。いや、物理的、数学的センスを欠いた、これを不思議とも思わない人が大部分ではなかろうか。

仮に次の式を知っていたとしても、そのような、ある種の「音痴」の人にとっては、依然として不思議であるに違いない。
わたしは、上は物理的な、あるいは数学的なセンスの問題であるけれども、たとえば文学であっても同じようなものだろうと思う。とても文学などとは言えない、平易な手紙の文章であっても、その上面だけを追う人にとっては、書き手の真意など見えやしない。たとえそこに強烈な皮肉が込められていたとしても分かりはしないのである。ましてや行間を読むなど不可能といってもよい。

さて、なぜ光の速度とエネルギーとが関係するのか。

アインシュタインは、相対性理論により、(この世には)光の速度を超えるものがないことを示した。たとえば陽子をサイクロトロンで加速していくとその質量は

mx=m/√1-(v/c)^2 となり、

これにより、v:陽子の速度 が光速に近づくにつれ、その質量が飛躍的に増加し、加速するのに莫大なエネルギーを要するようになることが分かる。つまり、質量の増加分×光の速度の二乗分のエネルギーが必要となる。これはつまり  E=mc^2  である。

わたしはいま、数学と精神との関係ということを述べようとしている。われながら呆れるほど高尚な問題である。
そのために、わたし自身よく分かりもしない相対性理論を取り上げたが、これほど難解な物理的、数学的なものではなくとも、数学が精神をもっていることは証明できる。

ガウスは7歳のとき、算数の授業で先生から「1から100まで足すといくつになるか計算しなさい」と問題を与えられた。この先生、これで30分ほどはサボれると思っていたのかも知れない。わずか10秒ほどでガウスが「できました」と手を挙げたのには驚いた。しかも答は正解であった。

この逸話、今では有名すぎてなんらインパクトを持たない。それに、いい歳をした大人でこんな計算ができない者はいない。しかし、これは幾何学の応用問題ですね、などと言うと、怪訝な顔をする者も少なくない。
さらに、それでは「1から100までの数字のうち奇数だけ足すといくつになるか」とか「偶数だけだといくつになるか」と訊ねると、たちまち頭が真っ白になって答えられない者が多いのである。ついつい、中学で習ったでしょ、と言いたくなる。

n^2 とか n(n+1) と聞いて、はっと思い当たる人はましな方である。これが簡単な幾何の問題であることに気が付く人はあまり多くない。

タイル職人やレンガ職人なら、上の意味がよく解るに違いない。1+3+5+・・・は、1枚の□の右回りに3枚(田の字になる)、5枚(囲の字になる)とタイルを置いていったのと同じだからである。
1から100までの数字のうち、奇数も偶数も同じく50である。
だから、奇数のみを足せば、 n^2=2500 となり、偶数のみを足す場合には、奇数のみ並べたタイルの下にタイルを50個並べればよいだけのことである。すなわち、2550になる。

閃きのことをインスピレーションというが、この言葉の中にも精神が入っている。精神はスピリットであり、酒の中にさえ入っている。