10と11

2012/02/15 12:19

意味不明のタイトルにはそれなりの意味がある。

以前に佐伯啓思氏の反・幸福論についての拙文をものした。そのなかで、日本国憲法にも高らかに謳われている第13条の幸福追求権というのは、つまるところは金儲け推奨の条文ではないか、というようなことを述べた。

もちろん、日本国憲法たるものがこのように卑俗な趣旨のことをわざわざ条文にするはずがない、と誰しもが考えるであろう。しかし、ご存知のように、日本国憲法にはきちんとした英訳がある。参考のために、件の13条の英文を紹介してみよう。

十三条 個人の尊重と公共の福祉

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福の追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

Article13.
All of the people shall be respected as individuals. Their right to life, liberty, and the pursuit of happiness shall, to the extent that it does not interfere with the public welfare, be the supreme consideration in legislation and in other government affaires.

日本国憲法というのは、そもそもが、日本人の頭によって考案されたものではないのである。つまり、わたしは日本国憲法のきちんとした英訳があると述べたが、これは本末転倒した言い方であって、実はGHQの手になる英文の草案を日本語訳したにすぎない(言い過ぎだろうか?)のである。
だから、日本国憲法の文章がわたしたち日本人にとって、まるで翻訳もののミステリーでも読んでいるような、妙なひっかかりがあるのは至って当然のことなのだ。

なにが言いたいか、単刀直入に述べよう。
日本国憲法は、当時GHQの大きな勢力であったユダヤ人たちによって策定された。
そのユダヤ人の思想が日本国憲法には注入されている。日本人にとっての支柱とも言うべき憲法ユダヤ人の精神によってよって成り立っているのである。

ところで、一口にユダヤ人と言っても、彼らには10も11種もレースがあるらしい(もちろんこれは冗談で、ユダヤ人をJew、ユダヤ的をJewishということからの単なるシャレである。そもそもユダヤ人という民族は存在しない)。

わたしは、ユダヤ人に何ら差別的感情をもつものではない。しかし、彼らユダヤの民が今日にあっても多くの非ユダヤ人たちの偏見に晒されていることは知っている。

では、なぜユダヤ人はかくも嫌われるのか? わたしは、この問題に詳しいわけではないが、その大きな理由として、彼らが歴史上流浪の民であったということがあると考える。流浪の民であった(それがまた宗教的偏見に基づくものであったとしても)が故に、彼らにとって土地に代わる財産として金(マネー)というものが必然的に大きな価値を占めるようになった。そして、現代とは違い経済成長率が著しく低かった時代においても彼等は高利で金を貸すようになった。すなわち、ユダヤ人といえば高利貸しのことだったのだ。ベニスの商人を挙げるまでもなく、西洋の古い文学を読めば必ずと言ってもよいほどに彼らは高利貸しとして登場する。

さて、極論を言ってしまうなら、現代の日本はユダヤ的な国になってしまったのである。なぜなら、現代日本は、GHQの一大勢力を占めていたユダヤ人たちが「自分たちにとっての理想的な国家」を実現するためのいわば実験台だからである。

少なくとも、武士道時代のわが国は決して拝金主義などではなかった。それどころか、金は汚いものとさえ考えられていた。
それが戦後、わが国のこのような思想は見事に消し飛んでしまった。それとともに人の幸福観も、精神的というよりは物質的、金銭的な、いわば質よりも量的なものに変貌してしまったのである。

そこにユダヤの根を感じるのはわたしだけだろうか。