内村鑑三 デンマルク国の話

2013/03/13 16:15


青空文庫の方々に感謝を念じつつ、これを転載させていただきます。

デンマルク国の話

信仰と樹木とをもって国を救いし話

内村鑑三


曠野(あれの)と湿潤(うるおい)なき地とは楽しみ、
沙漠(さばく)は歓(よろこ)びて番紅(さふらん)のごとくに咲(はなさ)かん、
盛(さかん)に咲(はなさ)きて歓ばん、
喜びかつ歌わん、
レバノンの栄(さか)えはこれに与えられん、
カルメルとシャロンの美(うるわ)しきとはこれに授けられん、
彼らはエホバの栄(さかえ)を見ん、
我らの神の美(うる)わしきを視(み)ん。
       (イザヤ書三五章一―二節)


 今日は少しこの世のことについてお話しいたそうと欲(おも)います。
 デンマークは欧州北部の一小邦であります。その面積は朝鮮と台湾とを除いた日本帝国の十分の一でありまして、わが北海道の半分に当り、九州の一島に当らない国であります。その人口は二百五十万でありまして、日本の二十分の一であります。実に取るに足りないような小国でありますが、しかしこの国について多くの面白い話があります。
 今、単に経済上より観察を下しまして、この小国のけっして侮(あなど)るべからざる国であることがわかります。この国の面積と人口とはとてもわが日本国に及びませんが、しかし富の程度にいたりましてははるかに日本以上であります。その一例を挙(あ)げますれば日本国の二十分の一の人口を有するデンマーク国は日本の二分の一の外国貿易をもつのであります。すなわちデンマーク人一人の外国貿易の高は日本人一人の十倍に当るのであります。もってその富の程度がわかります。ある人のいいまするに、デンマーク人はたぶん世界のなかでもっとも富んだる民であるだろうとのことであります。すなわちデンマーク人一人の有する富はドイツ人または英国人または米国人一人の有する富よりも多いのであります。実に驚くべきことではありませんか。
 しからばデンマーク人はどうしてこの富を得たかと問いまするに、それは彼らが国外に多くの領地をもっているからではありません、彼らはもちろん広きグリーンランドをもちます。しかし北氷洋の氷のなかにあるこの領土の経済上ほとんど何の価値もないことは何人(なんびと)も知っております。彼らはまたその面積においてはデンマーク本土に二倍するアイスランドをもちます。しかしその名を聞いてその国の富饒(ふにょう)の土地でないことはすぐにわかります。ほかにわずかに鳥毛(とりのけ)を産するファロー島があります。またやや富饒なる西インド中のサンクロア、サントーマス、サンユーアンの三島があります。これ確かに富の源(みなもと)でありますが、しかし経済上収支相償うこと尠(すくな)きがゆえに、かつてはこれを米国に売却せんとの計画もあったくらいであります。ゆえにデンマークの富源といいまして、別に本国以外にあるのでありません。人口一人に対し世界第一の富を彼らに供せしその富源はわが九州大のデンマーク本国においてあるのであります。
 しかるにこのデンマーク本国がけっして富饒の地と称すべきではないのであります。国に一鉱山あるでなく、大港湾の万国の船舶を惹(ひ)くものがあるのではありません。デンマークの富は主としてその土地にあるのであります、その牧場とその家畜と、その樅(もみ)と白樺(しらかば)との森林と、その沿海の漁業とにおいてあるのであります。ことにその誇りとするところはその乳産であります、そのバターとチーズとであります。デンマークは実に牛乳をもって立つ国であるということができます。トーヴァルセンを出して世界の彫刻術に一新紀元を劃(かく)し、アンデルセンを出して近世お伽話(とぎばなし)の元祖たらしめ、キェルケゴールを出して無教会主義のキリスト教を世界に唱(とな)えしめしデンマークは、実に柔和なる牝牛(めうし)の産をもって立つ小にして静かなる国であります。
 しかるに今を去る四十年前のデンマークはもっとも憐れなる国でありました。一八六四年にドイツ、オーストリアの二強国の圧迫するところとなり、その要求を拒(こば)みし結果、ついに開戦の不幸を見、デンマーク人は善く戦いましたが、しかし弱はもって強に勝つ能(あた)はず[#「能(あた)はず」はママ]、デッペルの一戦に北軍敗れてふたたび起(た)つ能わざるにいたりました。デンマークは和を乞いました、しかして敗北の賠償(ばいしょう)としてドイツ、オーストリアの二国に南部最良の二州シュレスウィヒとホルスタインを割譲しました。戦争はここに終りを告げました。しかしデンマークはこれがために窮困の極に達しました。もとより多くもない領土、しかもその最良の部分を持ち去られたのであります。いかにして国運を恢復(かいふく)せんか、いかにして敗戦の大損害を償(つぐな)わんか、これこの時にあたりデンマーク愛国者がその脳漿(のうしょう)を絞(しぼ)って考えし問題でありました。国は小さく、民は尠(すくな)く、しかして残りし土地に荒漠多しという状態(ありさま)でありました。国民の精力はかかるときに試(た)めさるるのであります。戦いは敗れ、国は削(けず)られ、国民の意気鎖沈しなにごとにも手のつかざるときに、かかるときに国民の真の価値(ねうち)は判明するのであります。戦勝国の戦後の経営はどんなつまらない政治家にもできます、国威宣揚にともなう事業の発展はどんなつまらない実業家にもできます、難いのは戦敗国の戦後の経営であります、国運衰退のときにおける事業の発展であります。戦いに敗れて精神に敗れない民が真に偉大なる民であります、宗教といい信仰といい、国運隆盛のときにはなんの必要もないものであります。しかしながら国に幽暗(くらき)の臨(のぞ)みしときに精神の光が必要になるのであります。国の興(おこ)ると亡(ほろ)ぶるとはこのときに定まるのであります。どんな国にもときには暗黒が臨みます。そのとき、これに打ち勝つことのできる民が、その民が永久に栄ゆるのであります。あたかも疾病(やまい)の襲うところとなりて人の健康がわかると同然であります。平常(ふだん)のときには弱い人も強い人と違いません。疾病(やまい)に罹(かか)って弱い人は斃(たお)れて強い人は存(のこ)るのであります。そのごとく真に強い国は国難に遭遇して亡びないのであります。その兵は敗れ、その財は尽(つ)きてそのときなお起るの精力を蓄うるものであります。これはまことに国民の試練の時であります。このときに亡びないで、彼らは運命のいかんにかかわらず、永久に亡びないのであります。
 越王勾践(こうせん)呉を破りて帰るではありません、デンマーク人は戦いに敗れて家に還ってきました。還りきたれば国は荒れ、財は尽き、見るものとして悲憤失望の種ならざるはなしでありました。「今やデンマークにとり悪しき日なり」と彼らは相互に対していいました。この挨拶(あいさつ)に対して「否(いな)」と答えうる者は彼らのなかに一人もありませんでした。しかるにここに彼らのなかに一人の工兵士官がありました。彼の名をダルガス(Enrico Mylius Dalgas)といいまして、フランス種のデンマーク人でありました。彼の祖先は有名なるユグノー党の一人でありまして、彼らは一六八五年信仰自由のゆえをもって故国フランスを逐(お)われ、あるいは英国に、あるいはオランダに、あるいはプロイセンに、またあるいはデンマークに逃れ来(きた)りし者でありました。ユグノー党の人はいたるところに自由と熱信と勤勉とを運びました。英国においてはエリザベス女王のもとにその今や世界に冠たる製造業を起しました。その他、オランダにおいて、ドイツにおいて、多くの有利的事業は彼らによって起されました。旧(ふる)き宗教を維持せんとするの結果、フランス国が失いし多くのもののなかに、かの国にとり最大の損失と称すべきものはユグノー党の外国脱出でありました。しかして十九世紀の末に当って彼らはいまだなおその祖先の精神を失わなかったのであります。ダルガス、齢(とし)は今三十六歳、工兵士官として戦争に臨み、橋を架し、道路を築き、溝(みぞ)を掘るの際、彼は細(こま)かに彼の故国の地質を研究しました。しかして戦争いまだ終らざるに彼はすでに彼の胸中に故国恢復(かいふく)の策を蓄えました。すなわちデンマーク国の欧州大陸に連(つら)なる部分にして、その領土の大部分を占むるユトランド(Jutland)の荒漠を化してこれを沃饒(よくにょう)の地となさんとの大計画を、彼はすでに彼の胸中に蓄えました。ゆえに戦い敗れて彼の同僚が絶望に圧せられてその故国に帰り来(きた)りしときに、ダルガス一人はその面(おも)に微笑(えみ)を湛(たた)えその首(こうべ)に希望の春を戴(いただ)きました。「今やデンマークにとり悪しき日なり」と彼の同僚はいいました。「まことにしかり」とダルガスは答えました。「しかしながらわれらは外に失いしところのものを内において取り返すを得(う)べし、君らと余との生存中にわれらはユトランドの曠野を化して薔薇(バラ)の花咲くところとなすを得べし」と彼は続いて答えました。この工兵士官に預言者イザヤの精神がありました。彼の血管に流るるユグノー党の血はこの時にあたって彼をして平和の天使たらしめました。他人の失望するときに彼は失望しませんでした。彼は彼の国人が剣をもって失ったものを鋤(すき)をもって取り返さんとしました。今や敵国に対して復讐戦(ふくしゅうせん)を計画するにあらず、鋤(すき)と鍬(くわ)とをもって残る領土の曠漠と闘い、これを田園と化して敵に奪われしものを補わんとしました。まことにクリスチャンらしき計画ではありませんか。真正の平和主義者はかかる計画に出でなければなりません。
 しかしダルガスはただに預言者ではありませんでした。彼は単に夢想家(ゆめみるもの)ではありませんでした。工兵士官なる彼は、土木学者でありしと同時に、また地質学者であり植物学者でありました。彼はかのごとくにして詩人でありしと同時にまた実際家でありました。彼は理想を実現するの術(すべ)を知っておりました。かかる軍人をわれわれはときどき欧米の軍人のなかに見るのであります。軍人といえば人を殺すの術にのみ長じている者であるとの思想は外国においては一般に行われておらないのであります。
 ユトランドデンマークの半分以上であります。しかしてその三分の一以上が不毛の地であったのであります。面積一万五千平方マイルのデンマークにとりましては三千平方マイルの曠野は過大の廃物であります。これを化して良田沃野となして、外に失いしところのものを内にありて償(つぐな)わんとするのがそれがダルガスの夢であったのであります。しかしてこの夢を実現するにあたってダルガスの執(と)るべき武器はただ二つでありました。その第一は水でありました。その第二は樹(き)でありました。荒地に水を漑(そそ)ぐを得、これに樹を植えて植林の実を挙ぐるを得ば、それで事(こと)は成るのであります。事(こと)はいたって簡単でありました。しかし簡単ではあるが容易ではありませんでした。世に御(ぎょ)し難いものとて人間の作った沙漠のごときはありません。もしユトランドの荒地がサハラの沙漠のごときものでありましたならば問題ははるかに容易であったのであります。天然の沙漠は水をさえこれに灑(そそ)ぐを得ばそれでじきに沃土(よきつち)となるのであります。しかし人間の無謀と怠慢とになりし沙漠はこれを恢復するにもっとも難いものであります。しかしてユトランドの荒地はこの種の荒地であったのであります。今より八百年前の昔にはそこに繁茂せる良き林がありました。しかして降(くだ)って今より二百年前まではところどころに樫の林を見ることができました。しかるに文明の進むと同時に人の欲心はますます増進し、彼らは土地より取るに急(きゅう)にしてこれに酬(むく)ゆるに緩(かん)でありましたゆえに、地は時を追うてますます瘠せ衰え、ついに四十年前の憐むべき状態(ありさま)に立ちいたったのであります。しかし人間の強欲をもってするも地は永久に殺すことのできるものではありません。神と天然とが示すある適当の方法をもってしますれば、この最悪の状態においてある土地をも元始(はじめ)の沃饒に返すことができます。まことに詩人シラーのいいしがごとく、天然には永久の希望あり、壊敗はこれをただ人のあいだにおいてのみ見るのであります。
 まず溝を穿(うが)ちて水を注ぎ、ヒースと称する荒野の植物を駆逐し、これに代うるに馬鈴薯じゃがたらいも)ならびに牧草(ぼくそう)をもってするのであります。このことはさほどの困難ではありませんでした。しかし難中の難事は荒地に樹を植ゆることでありました、このことについてダルガスは非常の苦心をもって研究しました。植物界広しといえどもユトランドの荒地に適しそこに成育してレバノンの栄えを呈(あら)わす樹はあるやなしやと彼は研究に研究を重ねました。しかして彼の心に思い当りましたのはノルウェー産の樅(もみ)でありました、これはユトランドの荒地に成育すべき樹であることはわかりました。しかしながら実際これを試験(ため)してみますると、思うとおりには行きません。樅は生(は)えは生(は)えまするが数年ならずして枯れてしまいます。ユトランドの荒地は今やこの強梗(きょうこう)なる樹木をさえ養うに足るの養分を存(のこ)しませんでした。
 しかしダルガスの熱心はこれがために挫(くじ)けませんでした。彼は天然はまた彼にこの難問題をも解決してくれることと確信しました。ゆえに彼はさらに研究を続けました。しかして彼の頭脳(あたま)にフト浮び出ましたことはアルプス産の小樅(こもみ)でありました。もしこれを移植したらばいかんと彼は思いました。しかしてこれを取り来(きた)りてノルウェー産の樅のあいだに植えましたときに、奇なるかな、両種の樅は相いならんで生長し、年を経るも枯れなかったのであります。ここにおいて大問題は釈(と)けました。ユトランドの荒野に始めて緑の野を見ることができました。緑は希望の色であります。ダルガスの希望、デンマークの希望、その民二百五十万の希望は実際に現われました。
 しかし問題はいまだ全(まった)く釈けませんでした。緑の野はできましたが、緑の林はできませんでした。ユトランドの荒地より建築用の木材をも伐り得んとのダルガスの野心的欲望は事実となりて現われませんでした。樅(もみ)はある程度まで成長して、それで成長を止めました、その枯死(かれること)はアルプス産の小樅(こもみ)の併植(へいしょく)をもって防(ふせ)ぎ得ましたけれども、その永久の成長はこれによって成就(とげ)られませんでした。「ダルガスよ、汝の預言せし材木を与えよ」といいてデンマークの農夫らは彼に迫りました。あたかもエジプトより遁(のが)れ出でしイスラエルの民が一部の失敗のゆえをもってモーセを責めたと同然でありました。しかし神はモーセの祈願(ねがい)を聴きたまいしがごとくにダルガスの心の叫びをも聴きたまいました。黙示は今度は彼に臨(のぞ)まずして彼の子に臨みました、彼の長男をフレデリック・ダルガスといいました。彼は父の質(たち)を受けて善き植物学者でありました。彼は樅(もみ)の成長について大なる発見をなしました。
 若きダルガスはいいました、大樅がある程度以上に成長しないのは小樅をいつまでも大樅のそばに生(はや)しておくからである。もしある時期に達して小樅を斫(き)り払ってしまうならば大樅は独(ひと)り土地を占領してその成長を続けるであろうと。しかして若きダルガスのこの言を実際に試(ため)してみましたところが実にそのとおりでありました。小樅はある程度まで大樅の成長を促(うなが)すの能力(ちから)を持っております。しかしその程度に達すればかえってこれを妨ぐるものである、との奇態(きたい)なる植物学上の事実が、ダルガス父子によって発見せられたのであります。しかもこの発見はデンマーク国の開発にとりては実に絶大なる発見でありました、これによってユトランドの荒地挽回(ばんかい)の難問題は解釈されたのであります。これよりして各地に鬱蒼(うっそう)たる樅の林を見るにいたりました。一八六〇年においてはユトランドの山林はわずかに十五万七千エーカーに過ぎませんでしたが、四十七年後の一九〇七年にいたりましては四十七万六千エーカーの多きに達しました。しかしこれなお全州面積の七分二厘に過ぎません。さらにダルガスの方法に循(したが)い植林を継続いたしますならば数十年の後にはかの地に数百万エーカーの緑林を見るにいたるのでありましょう。実に多望と謂(いい)つべしであります。