哲学につける薬5

2016/05/04 14:29


哲学というのは本当にくだらない。本心からこんなことを言うのは、勿論わたし自身に幾分哲学者的な、いや小哲学者的なところがあるからである。今、小という字を冠したが、これが大であろうと中であろうと、くだらないものに何を冠しようとその価値が上がるわけではない。

哲学と同様にくだらないのは宗教である。こんなものに一生捕われ続けるのは本当に愚の骨頂である。親が子に、子が孫にと、こんなものを延々と伝え続けていくのだとしたら、それは何か悪い病気の遺伝子が伝わっていくようなものではないか。

ただ、仏教については、わたしは余り否定的には考えない。仏教は悟りだからである。宗教には啓示という言葉があるが、これは悟りとは別物であろう。なぜなら、啓示は示されるからである。示すのは、彼らの言う神であって、決して自らが示すわけではない。
ところが、悟りは自ら悟らなければならないわけで、親から子に伝わっていくものでもない。
自ら悟るために何をするか、あるいは何をしないか、その方法は個々のものであって、そこに強制はない。もしもそんなものがあるとしたら、仏教の本質から外れている。

さて、仏教は少しばかり擁護するとしても、哲学と宗教には何の価値もない、というのが最近のわたしの考えである。
なぜこのように考えるようになったかはすでに述べた。それは、最近のAIの飛躍的な進化である。AIは決して哲学や宗教をやらない。それは、これらが非論理的でありながら論理的な思考を要するものだからである。
ガリレオの時代、宗教界は神の業に反するとして地動説を否定した。あるいはダーウィンの時代にも同じように進化論に異を唱えた。今この時代にもアメリカのバイブルバンドと呼ばれる地帯には地動説も進化論も否定する人たちがいる。わたしは別段、このような人たちを否定するつもりはない。天動説を信じようと進化論を否定しようと、わたしたちの幸福とはなんら関係がないからである。

ただ、「わたしたちの幸福」という決して論理的ではないことを論理的に追及することは、いくらAIでも容易ではないであろう。

仏教にはまだ「救い」があると思うのは、仏教は物理学であり心理学でもあるからだ。色即是空、空即是色は物理法則として捉えても、そこに何ら瑕疵はない。物質はただひとりでは何ら現象しないわけであるし、現象には必ず二つ以上の物質が必要である。柏手を打って音がするのは左手と右手があるからである。さて、どちらの手が音を立てたか聞く者はいない。鐘がゴーンと厳かに鳴るのも同じことである。
悟るということにしても、悟るのはひとの心であり、これは脳内の現象という物理の問題であり、同時に心理学の問題でもある。心理学とは言っても、そこには生物38億年の歴史が裾野を広げているわけで、それは膨大なソフトウェアの問題と言ってもよいかも知れない。

結論をいうなら、AIという超優れた頭脳を念頭に考えてみれば、やはり哲学や宗教のくだらなさが浮かび上がってくるような気がする、ということである。

AIがこれまで人間が解決できなかった難題をすべて手際よく片付けてくれたら、・・・エネルギー問題も地球温暖化も解決し、食糧問題も貧困もなくなってしまえば、ガンもその他の難病もなくなり、老化もしなくなってしまえば、

人類はアダムとイブに回帰し、宗教も哲学もないアンスーシーで永遠に幸福に過ごすしかないではないか。