2015/05/21 10:11
技術的特異点、量子コンピュータ、人工知能、核融合発電。これらは今世紀中にすべて実現するであろう。すでにその芽は出ている。
量子コンピュータとシリコンチップのそれとでは、妙な喩えだが通常兵器と核兵器ほどの違いがある。創造力と破壊力というまったく相反する点を別にすれば、人類の将来に及ぼすであろう影響はチンプンカンプン、いやチンプとコンプ以上の、あるいは算盤と電卓以上の違いがある。
さて、従来のものと比べて飛躍的なスピードと並列処理を行う量子コンピュータは即人工知能と結びつくであろう。そうすると、それがまたすぐに技術的特異点に達することは必然である。
では、技術的特異点の何が問題なのか。
人類の歴史に特異点は何回もあった。産業革命もその一つであったし、ルネッサンスもその一つに数えることができる。石器から鉄器へ、そして狩猟採取の生活から農耕社会への移行。これらはもちろん、人類のあり方に大きな変化をもたらした。
進化を人類の内的革命とすれば、これらは外的な進化であった。
技術的特異点は上とは全く様相を異にする。人類に変化をもたらす、というよりも、人類の存続にかかわる問題となるであろう。
なぜなら、これは人類にハムレット的な、生きるべきか死すべきかという哲学的ジレンマをもたらすであろうからである。
人類はこれまで何を支えに生きてきたのであろうか。人類を生きながらえさせてきたのは、実際にそれを意識しようとしまいと、哲学的命題によってではなかったか。すなわちそれは、自らの存在意義を問うこと、そのことじたいが人類に生の価値を与えてきたのである。
ところが、テクニカル・シンギュラリティーの訪れによって、智の分野においても、もはや人類には生存の意義が失われてしまう事態が到来してしまった。
すでに狩猟や採取、農耕の、原始的喜びは失われ、さらには智の追求という最後の喜びさえ失われようとしているのである。
人工知能に人間がその存在意義を問うたとする。
「それは、わたしを創造した時点ですでに失われています」が、おそらく彼の応えであろう。
そんな時代を、誰が「本当に」生きようという気になるであろう。