決定的宇宙論

などと、オーバーなタイトルだが、その通り大層なことを言うつもりだ。

足元の一匹の蟻を踏み潰したら未来は変わるだろうか。と言ったのはゲーテだ。

蓋を開けてみるまでは、箱の中の猫が生きているのか死んでいるのかはわからない。というのは、有名なシュレディンガーの猫の譬え話だ。

この両者に何の関係があると言うのか?と思ってくれた人だけが読んでくれればよい。

タイトル通り、わたしは一貫して決定的宇宙論者なので、両者の関係は自明に思える。

蟻を踏み潰すか否か、というのは人間の意思を問うているのではない。ゲーテは、端的に言えば未来は決定しているものなのか、それとも偶然に左右されるものなのかを自問自答しているのである。

もしも蟻を踏み潰したら、それは蟻を踏み潰さなかったということが否定されたというに止まらず、最初からそんな宇宙は存在しなかったのである。

シュレディンガーの猫についてもしち難しい理論など弄さなくとも、蓋を開けるか否かは最初から決まっているので、仮定自体が存在しないのだ。

観測する、しないは仏教の言うところの縁に通づるのではないか。縁がなければ現象など生じないのだ。

この世は縁によって成り立っている。そして、その縁自体も宇宙開闢から終焉まで定められていたものなのだ。