文明について

2014/05/22 17:39

老子を少しばかりかじり、マーク・ローランズの「哲学者とオオカミ」を何度も読み返し、ジャック・ロンドンの「白い牙」、「荒野の呼び声」もまた何度も読んだ。

わたしは、マーク・ローランズがジャック・ロンドンの愛読者であったことは疑いないと考えている。ローランズがそう言っているわけではない。事実は自ずと文章に現れる。

それにしても文明というやつについてである。老子は紀元前の人であるから、もちろん現代文明には浴していない。
ジャック・ロンドンは汽船や蒸気機関車の時代の人である。彼は、汽船やSLにも乗ったかも知れないが、そもそもがホーボ(これは日本語の方々からきているという)だった。金を求めてカナダのあちこちを放浪した。若いときは不良で養殖の牡蠣を盗んでは売りさばいたりもした。
ローランズは今齢50ほどであろうか。スマホくらいは使っているかも知れないが、本を読む限りでは隠遁者である。それに自身でも厭世家であると述べている。つまり、自ら進んでは決して現代文明の恩恵に浴そうとはしない人であろう。

文明とはいったいなんだろう。英語でいうならCivilizationとなるが、これは文化をも包含する。つまり、長い人類の歴史の中で培われた文化や伝統も、たとえそれが褌一丁の裸踊りであったとしても、文明の一部として扱われることになる。いや、その権利を有している。

だが、ここでは褌一丁の裸踊りや半被に捩じり鉢巻きで神輿を担ぐことを文明とは切り分けて、伝統・文化の範疇におくこととしよう。

そうすると、文明は比較的単純な科学技術という言葉に置き換えられる。いや、ここでは「文明」とはそういうものだと定義して扱おう。

そこで思うのだが、文明とはなんと不合理なものであろうか、ということである。
産業革命が起きて、はたして人類は幸福になったであろうか。農奴が工奴に置き換わっただけではなかったのか。
車は交通事故を招き、船は海難事故を起こす。それになにより、戦争の具として使われる。コンピュータは文字通り人を馬鹿にし、思考能力を奪う。

文明は、本質的に人間を蝕むという性質を持っている。
その曙光は、人の肉体的な弱さを補うものとして現れた。人は石器を作り、火を起こすようになった。石器は鏃となり槍や矢の先に仕込まれた。それを用いて獣を狩り、毛皮を剥いで被服にする術も知った。洞穴を出て、木や石で家を築くようになった。さらには家畜を養い、田畑を耕作するようになった。

そしてそれからわずか数千年を経て、人々はみな手に杓のようにスマホを持って歩き、蟻のごとくあっちでぶつかりこっちでぶつかりしているのが今のありさまだ。

文明は人を不幸にするという宿命を負っている。そもそも人とは、幸福を求めるあまり自ら不幸を招いてしまう生き物なのだ。
だから、文明を発達させる限り人は不幸を免れることはできない。
この自明のことに気が付いていたのが老子であった。そしてジャック・ロンドンもマーク・ローランズもこのことを知っていた。

文明はなぜ人を不幸にするか。それは、肉体の退化をもたらすからである。人間の幸福とは、すなわち肉体の喜びのことである。これは人間が生き物である限り、きわめて当たり前の事実だ。
脳といえども肉体である。精神といえども、つまるところは脳の反応であるから、すなわち肉体の退化は精神の退化に他ならない。

ところが、人間は肉体的苦痛や精神的な煩わしさを避けようとするあまり、つまり不便を嫌うあまりに、本末転倒的な事態を生じさせてしまったのである。

それは、マクロ的には地球温暖化に代表されるような、自らはもとより地球上のあらゆる生き物の生存にかかわるような事態を生じせしめ、またミクロにおいては、メタボや慢性的睡眠不足、それに強度の近視やアレルギーなどに貶めてしまっている。

不便こそが人間を鍛え幸福にする。その肉体のもてる能力をフルに発揮できる機会を与えるからだ。