奔訳 白牙

2016/02/08 21:40


奔訳 白牙

原作 ジャックロンドン

翻訳 荒野一狼

第一部

第一章 獲物を求めて

暗い唐檜の林が凍った河の両岸で顔を顰めていた。唐檜は最近、強い風により凍り付いた真っ白な皮を剥かれ、互いに身を寄せ合うように傾き、薄れゆく入日の中で不気味に黒く見えた。沈黙が広大な土地全体を支配していた。土地は荒廃し、生き物の影もなく、動く物もなく、寂しく、凍えるほど冷たかったが、そこに悲しさの入る隙はなかった。むしろ、そこには笑いの兆しさえ見えたが、その笑いというのはどんな悲しみよりも恐ろしく、スフィンクスの笑いよりも無慈悲であり、氷のように冷たい、無謬の冷徹さをもっていた。

それは、生きようとする命の徒労、悪あがきを笑う絶対者としての、決して意思の疎通も不能な永遠の智慧であった。それこそが荒野、情け容赦のない、凍てついた心を持つ北地の荒野であった。

しかし、そんな地にさえ、足を踏み入れ冷厳な笑いに歯向かおうとする命があった。凍りついた川床を革紐を引いて下る狼のような犬たちである。彼らの尖った毛は霜に覆われていた。口から吐き出された瞬間に息は宙で凍りつき、前方で白い粉となって全身の毛にまとわりつき結晶化した。革製の帯紐が彼らにはかけられ、それから引き紐が橇へとつながれている。その橇にはランナーがなかった。その代わりに丈夫な樺の樹皮で作った板がしっかりと雪を捉えている。板の前部は渦巻きのように上方に曲げられており、そのために柔らかな雪が波のように押し寄せるのを躱すことができた。
橇の上に固く縛られているのは細くて長い木の箱であった。その他にも毛布や斧、それにコーヒーポットやフライパンなどが載せられていたが、もっとも人目を惹き、また場所を占めているのがこの細長い木の箱なのであった。

犬たちの前方では、幅広のかんじきを履いた男が雪と格闘していた。また橇の後ろでは二人目の男がやはり雪と格闘をしている。そして、橇に載せられた箱の中では、すでに格闘を終えた三番目の男が、――自然の厳しさに打ち負かされ二度と戦うことの叶わなくなった男が横たわっているのであった。なぜなら、動こうとするものをことごとく拒絶するのが荒野の本性だからである。そして命とは、絶えず動こうとする性向のものであるから、荒野は常にこれを破壊しようと試みるのである。海を目指して駆け込もうとする水を凍らせて阻み、樹々を芯まで凍てつかせて樹液を染み出させ、そして何よりも荒野が凶暴で恐ろしいのは、人を、――命の中でも最も活発で、動くものはすべて最後にはその動きを止めねばならない、というこの世界の原理に逆らおうとする人間という存在を屈服させようとする意志の力であった。

しかしながら、橇の前と後ろでは不撓不屈、不遜な男が二人、未だ死にもせず格闘を続けていた。二人は毛皮と柔らかく鞣した革に覆われている。睫毛にも頬にも唇にも吐き出した息が凍って結晶化し、顔の見分けもつかなかった。それどころか、その亡霊のような印象は、彼の世で葬儀を執り行う者たちの姿やかくあらんと思わせた。もちろん、二人は歴とした人間の男たちであり、荒廃し、沈黙で彼らを嘲笑する土地を踏破するという、当初は小さな冒険のはずであったものが、いつの間にか隔絶した、人を拒み生き物の影一つ映さぬ、まるで宇宙の深淵のような土地へと足を踏み入れてしまって、途方もない冒険へと巻き込まれてしまったのであった。
二人は終始無言であった。労働のために少しでも息を節約しようとするかのように。四方はすべて静寂に包まれており、彼らの感覚を圧迫していた。それは、恰も深い水の圧力が潜水夫の全身を圧迫させるような心理的効果をもたらした。そしてそれは、彼らにいつ終わるとも知れぬ無辺の感覚と決して変わることのない布告のように重く襲い掛かるのであった。彼らの心奥にある窪みにまで浸漬していって、葡萄を圧搾するように、彼らから虚偽の情熱や歓喜を、そして過大評価に過ぎない人間の精神的価値というものを搾り取り、偉大なる不可視の要素と力よりなる演劇や演劇の幕間を弱々しい狡さや乏しい知恵で動きまわる有限で微小な塵や埃の類に過ぎぬ、ということに彼らが自ら気付くまで、決して止むことはないのである。